うつつをすてたこどものみるゆめ





 最初に訪れたのは衝撃。少し遅れて骨がぶつかる鈍い音が無機質な黄昏時の廊下に響き渡った。痛みが走ったのは一番最後。流石に倒れはしなかったけど足元は見事によろめき、踵に力を入れることで何とか姿勢を維持して顔を上げる。

「……いきなり乱暴だな」
「黙れ」

 晴矢の目は今にもその視線に刺し殺されそうな程にぎらぎらと剣呑な光を湛えていて、食いしばった歯はその怒りの度合いを如実に表していた。

「何であいつにあんな命令をした」
「何でもなにも。そんなの予め決まっていたことだったことじゃないか」
「そういうのは俺が請け負うって言った筈だ」
「それは却下した筈だよ」
「俺は認めてねえ!!!」

 もう一度、拳が振り上げられる。けれど不意を突かれた先刻と違い、こっちだって黙って殴られるつもりはない。身体を捻ってそれをかわし、逆に手首を掴み上げた。

「離せ!!」
「それも却下。また殴られるのは御免だよ、結構痛いんだから」
「……一番痛ぇ思いをしたのは誰だよっ!!」

 吐き捨てるように晴矢が怒鳴り、掴んでいた腕を力任せに払われた。もう殴ろうとはしてこなかったけれど、視線はさっきよりもずっと憎悪に満ちていた。

「あいつに破壊活動なんざ向かねえ。一番最初に矢面に立って世界中の恐れや怒りを受け止めるだなんて、出来る訳がねえ」
「酷いなあ。ちょっと彼の能力を低く見積もりすぎじゃないかい?」
「そういうことじゃねえ! あいつが、あの泣き虫が、誰かがちょっと怪我しただけで自分のことみたいに顔歪めるやつが! 誰かを傷つけるだなんて耐えきれる筈ねえだろっ!!」

 血を吐くような叫びとはこういうことを言うんだろうなあ。怒り狂う晴矢とは対照的に、こんなことを考えているくらいには俺は冷めていた。

「これは彼が自分から名乗り出たことだよ?」
「殆ど強要したようなもんだろうが!」
「まさか。俺はただ誰かやってくれる人はいないかなあ、って言ってただけ」
「あいつがお前の望みを聞いて、それを叶えようとしない訳がないだろ! んなことも分からないとは言わせねえぞ!!」
「分からない」

 間髪入れずにそう言ったら、それまで憤怒の形相をしていた晴矢が一気に表情を無くした。能面みたいな顔で、さっきよりも数百倍低い地を這うような声で静かに俺に告げてきた。

「てめえ……殺してやる」

 晴矢はとても口が悪くて、よく姉さんや砂木沼に注意されている。けれど彼は決して「死ね」や「殺す」といった言葉は使わない。逆に軽々しくそんなことを言う奴がいたら必ず諫める。
 晴矢が殺すと言ったときは、本気でそう思ったとき。沸点が低いようで実は誰よりも自制心がある彼が、それだけの怒りに呑まれているときだけだ。

 固く握られた拳が真っ直ぐに自分に向かってくる。俺は今度は避けようとはせず、ただその様子をじっと見ていた。殴りかかる晴矢の動作はおかしいくらいにスローモーションで、いつまで経っても届かない。けれど確実に拳先は近付いてきていて、まるで俺の周りだけ時の流れが遅くなってしまったようだ。

 ああ、もう少しだ。もう少しで……。

 そう思っていたら、突然第三者の声が介入してきた。



「止めろ!」



 ぱん、と風船が弾けたように周囲の時は正常な間隔を取り戻し、モノクロだった世界は様々な彩りに染まった。俺の顔を砕いてこの身を吹き飛ばす筈だった拳はギリギリの所で止まっている。ぼんやりと視点をずらすと、必死に晴矢を羽交い締めにしている風介の姿があった。

「何をしているんだ、君達は!」
「っ離せ! こいつは、こいつだけは許せねえ!」
「だから落ち着け、晴矢! 君らしくもない!」
「うるせえ、お前に何が分かる! 何が俺らしくもないだ!」
「そうだな。少なくとも普段の君なら、こんな殴る価値も無い奴など相手にしない。そんな行為に時間を費やす程愚かじゃない」
「…………っ」

 激高する晴矢とは反対に風介はとても落ち着いていた。淡々と紡がれる言葉に冷静さを取り戻したのか、未だ足掻いていた晴矢の動きが止まる。暫く握り締められた自分の手を見つめ、それから見たもの全てを焼き尽くしそうな怒りを込めてこちらを一瞥した。



「……下衆野郎」



 そう吐き捨てると、晴矢は風介の手を払いのけて足早に去っていった。後に残された俺と風介はその背中をただ見つめる。沈黙がその場を支配する中、遠ざかる足音だけが静かに響き渡った。

「……ありがとう、と言うべきなのかな。君も随分酷い言い草だったけれど」
「要らん。別に君を助けた訳じゃないからな。私は晴矢を助けたかっただけだ。晴矢と、それからリュウジのことをな」
「……そう」

 実に風介らしい答えだ。俺は何だか無性に可笑しくなって、口の端に小さく笑いを刻んだ。風介はそんな俺を冷めた目で見ていた。

「そうやって全ての感情に蓋をして、リュウジの想いも見ない振りをして。それで君は満足か」
「何のことだか分からないな」
「……あくまで白を切るか。それならそれでいいさ」

 風介もまた踵を返し、この場を離れ始めた。俺はその場に立ったまま、視線のひとつも動かさない。いくらも経たないうちにふと足音が途切れ、だが、と風介の口から言葉が続いた。

「君の行動はリュウジを傷つけ、リュウジが傷つくと晴矢が苦しむ。晴矢を苦しめる君は、私にとっての敵だ」




 風介は今度こそ振り返らずに去っていった。すっかり陽の落ちた広い廊下の真ん中で、とうとう一人になった俺はまだ痛みの残る左頬に手を当てて瞑目する。





『全て、貴方の望む通りに。グラン様』


「そうだよレーゼ。お前はただ、俺に従ってさえいればいいんだ」


 そう、俺の名はグラン。あの子はレーゼ。グランにとってレーゼはただの部下であり、駒であり、人形である。グランは冷徹で残酷で、目的の為なら手段を選ばない。エイリア学園のマスターランク、ガイアを束ねる者。バーンとガゼル、彼等もまたマスターランクの長であり、グランにとってはやはりただの手駒だ。
 自分にとって、基山ヒロトなどという人間の感情などは邪魔になるだけ。

 ふわりと揺れる新緑色の髪の記憶など、この胸の痛みと共に捨ててしまえばいいのだ。



 たとえそれが、虚を抱くことになっても。






end.







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