Autumnal


 時が経つというのはこんなにも早いものなのだろうか。
 薄く色付き始めた木々の葉を見ながら、アズリアはぼんやりとそう思った。
 僅かに黄味を帯びたアルサックの葉は、いずれ燃え上がる様な赤へと変わるだろう。

(“赤”か……)

 それはこの半年間、アズリアにとって一番身近な色だった。
 そして、――多分これからも。

「アズリア」

 呼び掛ける声を耳に捉え、アズリアはゆっくりと振り返った。
 視界に映るのは、鮮やかな赤。

「ここにいると思ったよ」
「……レックス」

 声の主――レックスは薄く微笑みながら、アズリアの隣に腰掛けた。
 軍学校の中庭に設置された小さなベンチ。
 沢山のアルサックに囲まれたこの場所が、アズリアは好きだった。

「珍しいな。お前が放課後にここへ来るだなんて」
「そうかな? まあ、いつもいつも図書館へ行くのも何だし、たまには気分転換しようと思ってね」
 
 はは、と小さく笑い、レックスは空を見上げた。

「すっかり秋の空だね。早いなあ、もう半年かぁ」
「入学してから、か?」
「それもあるけど」

 ふとレックスは、アズリアの方へ向き直った。

「君と出会ってから半年も経ったんだなあ、と思って」

 さらりとそう言われ、アズリアは顔が熱くなるのを感じた。

(……い、いかん)

 すーはーと息を吸って、アズリアは乱れかかった心拍数を落ち着ける。

「実際は夏期休暇も挟んだから、本当に半年間一緒に過ごした訳じゃないけど……。時間の経つのって、早いものだね」

 感慨深げに呟かれたレックスの言葉を、アズリアは心の中で反芻していた。

(一緒に、過ごした……)

 そう。
 この半年間、アズリアは学校生活のほとんどをレックスと共に過ごした。
 いつでも、ふと隣を見ると、彼が微笑んでいた。
 最初の頃はそれが酷く鬱陶しく感じられたが、いつしかレックスが隣にいることがアズリアにとって当然のこととなり、彼女の日常となっていった。
 彼はいつも、彼女の隣で笑っている。
 けれど――――

「どうしてお前は、私の側にいるんだ?」

 ぽつりとアズリアは言った。
 レックスは一瞬、目を見張ったが、やがてすぐにいつもの微笑を浮かべる。

「……前にも言ったじゃないか。君の側なら、笑えるんだ」

 忘れちゃった?とレックスは苦笑した。

(――忘れたことなんか、ない)

 あの日、レックスに言われた言葉。
 今でも耳に残っている。
 言葉だけでなく、あの日の空の蒼さや揺らめく木々の葉、空気の匂いまで鮮明に。

(けれど……)

「……別に、私の側でなくても、お前はいつでも笑っているじゃないか」
 
 教室で、廊下で、訓練場で。自分以外の者達と笑い合っているレックスを、アズリアは何度も目にしていた。

 レックスは、アズリアの隣でなくとも、いつも笑っている。
 自分じゃない、誰かの隣でも……

「…………」

 我知らず、拳を強く握り締めるアズリア。
 そんな彼女の様子を見て、レックスは静かに口を開いた。

「……アズリアも、多分知ってると思うけど。俺の両親、もうだいぶ前に死んじゃったんだ」

 ハッと顔を上げ、アズリアは宙を見つめるレックスの横顔を見る。
 その表情からは先程までの笑みが消え、何処か陰りを含んでいた。

「俺は突然独りぼっちになっちゃって。それ以来、村の皆が俺を支えてくれたんだ」

 追想するように、レックスは瞳を閉じる。

「最初に村の誰かが俺を見つけてくれたとき、俺は……笑ってたんだ。父さんと母さんの亡骸を抱えて、二人の血に塗れながら。それから後もずっと、俺は笑い続けた。『笑い』を顔に張り付けたまま、心だけがどこかに行っちゃってたんだ。皆がどれだけ話し掛けても、俺は何の反応もせずに、ただ虚ろに笑い続けた」

 アズリアは、いたたまれない気持ちになって視線を逸らした。
 膝の上に置いた手で、ぎゅっと服の裾を掴む。

(両親が亡くなったのは知ってる。けれど……)

 あれは、入学から二月程過ぎた頃。名家の子女が生徒の多数を占める軍学校に於いて、一流の教育を受けて来た者達を差し置き首席を獲得したレックスは、すぐに噂の的となった。
 彼がどういう事情で、どういう環境で育ったのか。どうしていつも遊びにも行かず、夏期休暇も帰省すらしなかったのか。

 今にして、アズリアは考えた。
 今まで、レックスはどんな思いで自分の噂を聞いていたのだろう。
 思考にふけるアズリアを余所に、レックスは淡々と言葉を紡ぎ続ける。

「……それでも、村の皆は諦めなかった。諦めずに、俺を導いてくれたんだ。そのお陰で、俺はこうしてここにいる」

 そこまで話すと、レックスはアズリアの方へと向き直った。そうして、ふわりと笑みを浮かべる。
 いつも見せるものとは違う――哀しいような、儚いような。
 アズリアはその表情に、言い様のない胸の疼きを覚えた。

「皆のお陰で、俺は自分を取り戻せたけど……。それ以来、俺は『笑う』ってことがよく分からなくなったんだ」
「……え?」

 その言葉は意外だった。いつも笑っているレックスが、そんなことを言い出すなんて。
 驚きを隠せないアズリアに、レックスは僅かに苦笑する。

「普通、笑うのって楽しいときだろ? でも、俺はそれだけじゃない気がする。俺は一番辛かったとき、苦しかったときを笑って過ごしてた。勿論、そのとき俺に意識なんか無かったも同然だから、故意にしてた訳じゃないけど」

 丁度その時、二人の間を緩やかな風が通り抜けた。
 レックスの赤い前髪がさらさらと揺れ、瞳の青と相俟って幻想的な色彩を織り成す。アズリアがつい視線を引かれていると、レックスは声を改め台詞を続けた。

「そもそも、笑うって何なんだろう? 人って、どういうときなら心から笑えるのかな? 笑ったとして、それで一体何ができるんだろうって、そんなことをずっとぐるぐる考えてた」

 レックスはそこで一旦息をつくと、アズリアを見つめて『笑った』。

「……けれど、アズリアに会って、その答えが分かった気がした。君に会って、君と一緒にいて、俺は心から『笑えて』いたと思う。君の隣にいることで」
「…………!」

 アズリアは大きく目を見開いた。
 レックスはそんな彼女を見つめたまま、言葉を紡ぐ。

「半年前、この場所で君と出会って。たくさん突き飛ばされたり、ぶたれたりもしたけど。でも、俺、楽しかったんだ。楽しくて、心から『笑う』ことができた」

 レックスの碧眼が、真っ直ぐにアズリアの瞳を射抜く。

「だから、ずっと、君の側にいようと思った。君の隣で、君がくれる楽しさを感じながら、『笑って』いたいから」
 
 アズリアは何も言えなかった。
 レックスはただじっと彼女を見つめている。
 そのままどちらも口を開くこともなく、見つめ合ったまま固まった。
 風で揺れる木の葉だけが、刻が止まっていないことを教えてくれていた。

(わた、し、は――)

 何か言いたいのに、言葉が出ない。
 頭の中が真っ白になり、思考すらおぼつかない。それでも必死で口を開き、アズリアが言葉を紡ごうとしたその時。

「風、冷たくなってきたね。そろそろ寮に帰ろうか」

 そう言って、突如レックスが立ち上がった。

「はっ……?」
「ほら、行こうアズリア」

 差し出された手を、訳も分からぬまま取るアズリア。

(……って、違う!)

「おい、レックス! 手を放―――」

 発した台詞は、最後まで言われることはなかった。
 ぐい、と掴まれた手を引かれ、気付いた時には、アズリアはレックスの腕の中にいた。

(――――!!)

 自分が置かれている状況を理解した途端、アズリアの心臓は破裂しそうな勢いで脈打ち始めた。ドクンドクンという鼓動音がやけに大きく鳴り響き、顔は本当に火が出そうな位熱い。

(あ…ああ……)

 レックスの髪が頬に触れている。
 見た目通りの真っ直ぐで硬いそれは、それでもどこか優しい感触がした。

「アズリア」

(……ああ)

 レックスの声だ。
 思考が飛んだアズリアは、頭の片隅でぼんやりとそう思った。

「有難う、アズリア」

 レックスはそう言うとゆっくりと体を離し、そのまま何事も無かったかのようにアズリアの手を引いて歩き始めた。

「もう本当に戻らなくちゃ。風邪、ぶり返したら大変だからね」

 アズリアは返事をすることすら出来ず、半ばレックスに引き摺られてゆくように寮へと向かった。


 その後。
 女子寮の入口でへたりこんでいるアズリアをアティが発見し、やっとの思いで部屋へと連れて行ったという。



end.




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