Eternal 「時々、さ。思うことがあるんだ」 それは唐突な言葉だった。 なんでもない晴れた日の、なんでもない昼下がり。特別予定もなくて、イスラも朝から子供達と遊びに出ていて、久し振りに二人きりの時間が長く持てるなと、そんなことを考えながらアズリアは昼餉に使った食器を洗っていた。その背に掛けられた言葉だった。 いつもの他愛もない戯言かとも思ったが、耳にしてしまった以上無視をするのも忍びない。手にした器に付着していた洗剤の泡を流したところで手を止め、振り返らないままに訊き返してみた。 「……何をだ?」 「あ、良かった。聞いてないかと思った」 「いいからさっさと言え。本当に無視するぞ」 「ごめんごめん。……まあ、ありがちなことデスヨ。これでよかったのかなーっていう」 「…………」 訊いて損をした。そんな感情を思わず顔に出してしまったアズリアを見て、予測していたらしいレックスは直ぐに言葉を繋ぐ。 「勿論、君やイスラと暮らしていることを後悔してなんかいないよ、これっぽっちも。君の側にいられないことの方が余程気が狂うから」 「……それはどうも」 手近にあった清潔な布で水気を拭い、アズリアはレックスの向かいの席に腰を下ろした。木製の椅子がきし、と鈍い音を立てる。テーブルの上に活けられた花が微かに揺れた。 「けれどまあ、俺は君やイスラに多くのものを手放させてしまったし、常に最良の道を選んできたつもりだったけど、振り返ると随分と回り道だった気がするんだ」 「まあ、その辺は否定はしないな」 そう言うとレックスは困ったように苦笑した。何しろ彼の回り道は学生時代からのものなのだ。一番長い間振り回され続けたアズリアが多少の皮肉を言いたくなるのも無理もないだろう。 かた、と椅子を鳴らしてレックスが席を立った。戸棚に向かい二人分のカップとティーポットを準備し、水を入れた薬缶を火にかける。 「ミルクティーでいい?」 「ああ」 「アズリアは昔から好きだよねー」 「飲みやすいし、香りも良いからな」 「俺はどっちかというと何も入れないのが好みだけどね」 「人それぞれだろう」 「そりゃそうだ」 他愛もないことで談笑しているうちに、薬缶が沸音を奏で始める。注ぎ口や空気穴からじわじわと白い蒸気が上がり始めた。 二人でなんとはなしにその様子をぼんやりと眺めていたら、不意にアズリアがぽつりと呟いた。その場の空気に溶けるような、緩やかな声で。 「……私は、後悔していないと言ったら嘘になる。軍人として大成したかったし、跡目を継いでレヴィノス家を守っていきたいと思っていた。今も、思っている」 「…………」 だけど、と言葉を切って、アズリアはゆっくりとレックスに視線をやった。昔と変わらない、けれど昔よりもずっと穏やかになった黒曜の瞳。 「手放したものと同じくらい、確かに得たものがある。それで喪失が埋められるなどとは思っていないし、そもそも比べるべくもないものだから、代用品扱いする気もない。私が今手にしているものは、私にとっては文字通りかけがえのないものだ。大切なものだ。それがあるから、私は今日も生きていられる」 「……アズリア」 そう言うとアズリアは静かに微笑んだ。何もかもを包み込むようなその温かさが、レックスの心にじわりと沁みていく。 シュンシュンと鳴る薬缶の音がより大きくなった。そろそろ火から下ろすには丁度いい頃合いだろう。温めておいたポットに沸いた湯を注ぎ、蓋をする。砂時計をひっくり返し、蒸れるのを待つ間に砂糖やミルクなどを取り出してレックスは再び席に着いた。 「……よかった」 「何がだ」 「君がいてくれてよかった。君という存在がいてくれてよかった。君に出逢えて、よかった」 「……いきなり何だ、気持ち悪い」 「気持ち悪いは流石にひどいなぁ」 ひどいと言いながらレックスの表情はとても幸せそうに微笑んでいる。アズリアの耳朶が微かに紅くなっていることを知っているからだ。 たくさんの出会いがあり、別れがあり、幸福があり、犠牲があった。それでもこうして自分の一番側に彼女がいること、それこそがレックスにとっては唯一であり至上だった。 砂時計の砂はもう全て下に落ちようとしていた。頃合いを見計らってポットからカップに茶を注ぐ。柔らかな香りが鼻腔をゆるりと流れていった。 結局のところ、レックスにとってはアズリアがこうして自分の隣にいることが唯一であり至上なのだ。 過程がどんなものであっても、今はこうして共に在る。 どんなに時が流れても、湯気の向こうにゆらめく人をその温もりごと愛していこう。 カップに落とした角砂糖が、紅茶の海へとゆるやかに溶けた。 end. 戻る |