You're My Only * * * 『ねえ、“とくべつ”ってなあに?』 『特別? そうね、他の何にも比べられないもの……かしら』 『それって“すきなもの”のこと?』 『うーん、まあ近いかしら』 『じゃあ、ぼくの“とくべつ”はお母さんとお父さんのことだね』 『んー、嬉しいけど、多分違うんじゃないかな?』 『どうして? ぼく、お母さんとお父さんが一番好きだよ』 『もちろんお母さんも大好きよ。でもね、“好き”と“特別”は、似てるけど少し違うものなの』 『???』 『あなたにはまだ難しいかもね。たとえば……お母さんはあなたがとてもとても大好きで大切。でも、お母さんの“特別”な人はお父さんなのよ』 『お母さんはお父さんが好きじゃないの?』 『ううん、大好きよ。“大好き”で“特別”なの』 『よくわかんない……』 『今は分からなくても、いつか自然と分かる時が来るわ。あなたが特別なひとに巡り逢う時が。きっと、ね』 * * * 無理をしているようだ、と思った。 朝目覚めると大抵彼は身支度を済ませてしまっていて、起こしに向かうなどといったことは一度たりともしたことは無い。そのくせ夜は張り番でもないのに誰よりも遅い(自分達の授業の準備の為だとは知っている。だからこそ余計に歯痒かった)。 朝食を摂った後は少し時間を置いてから授業。昼を挟んでから小一時間ほど続け、終わった後は集落の手伝い。船の整備。はぐれ召喚獣の退治。そして時折偵察に来た帝国兵との戦闘。気付けばいつだって動いている。 原因は自分も含めた周囲の人間にもあるとは自覚していた。皆何かあるとつい彼を頼ってしまうのだ。正確には何も無くても頼りたがった。要するに彼は人気者なのだ。 元より凛々しいと言うよりは優しげな顔立ちをしていて物腰も柔らかく、いつでも笑顔を湛えている。加えて筋金入りの博愛精神の持ち主とくれば、誰もが彼を慕うのも無理らしからぬことだった。何より当の本人が進んであれもこれもと厄介事を引き受けたがるのだから、対処のしようも無いというものだ。 言って聞かせたところで到底改めるとは思えないし(意外に頑固者だということは既に周知の事実だ)、あの笑顔で何か手伝えることはないかと訊かれたら、遠慮する方がかえって申し訳なくなってしまうのだ。 陳腐な言い訳だと知りつつも、その好意に甘えてしまっていた。 ****** 朝食を終え、食堂を後にしたレックスをウィルは小走りで追いかけた。歩みに合わせてふわふわと揺れる濃紺のマフラーの端を引っ張るとぐえっと蛙が潰れたような声を出し、涙目のレックスが喉を押さえながら振り向いた。 「ちょっといきなり何? ウィル」 「先生、朝食は摂りましたか」 「え、ちゃんと食べたよ? って言うか君もついさっきまでその場に居たじゃないか」 「席が離れていたでしょう。あれではちゃんと食べているかどうか確認できません」 普段の食事は船の内部にある食堂で摂っているが、その席順については特に決められてはいない。早くに来た者から適当な席に腰掛けるのが常だ。今朝は着替えに手間取ったウィルが一番遅くに席に着き(靴下がベッドの下に落ちてしまって見つけられずにいたのだ)、そこは丁度レックスとは対角線上にある位置だった。海賊一家の食卓はそこそこ大きく、ウィルの位置から彼の食事の様子を窺い知ることは出来なかった。 「最近の貴方は少し食べなさすぎです。そんな調子では今に体調を崩してしまいますよ」 「そんなことないよ。あのくらいの量で充分お腹いっぱいなんだ」 「……あれは成人男性の食べる量ではありませんよ」 ウィル自身あまり食べる方ではないが、それでも一日の仕事量に対してこの人の食べる分量は圧倒的に少なすぎる。豪快に食べるカイルやソノラが傍にいるから余計にそれが際立つのだ。 レックスは少し困った風に眉を顰め、叱られた子供のような声で釈明をした。 「……別にわざと食べてない訳じゃないんだよ?」 「分かってますよ。だからってそのままだと倒れても仕方無いことぐらい自分で気づいているんでしょう?」 「…………」 こんなことで説教をされるだなんて、一体どちらが教師でどちらが生徒なのか。ウィルは少しばかり頭痛を覚えた。 「仮にも人にものを教える立場として、その体たらくはどうなんですか」 「……ごめん」 「自覚しているのなら何とかして下さいよ。好物をメニューに出すよう当番の方に頼むとか。何なら僕が言いに行きましょうか?」 「いや、流石にそこまではいいよ。……ありがと、ウィル。ごめんね」 「……いえ」 申し訳なさそうに眉尻を下げて謝る姿にウィルは何も言えなくなった。レックスは苦笑に顔を歪めると、くるりと向きを変えてその場を後にした。恐らく自室へ戻って授業の準備をするのだろう。自分もそろそろ支度をしないと遅刻してしまう。そんなことは委員長としてはあるまじき行為だ。 「……馬鹿、ですね。本当に」 ****** 「生憎だけど、センセはそんなこと一言も言いに来てないわよ」 「そうですか。やっぱり」 言う筈もないと思いつつ、今日の食事当番であるスカーレルに訊ねてみたら案の定の答えが返ってきた。夕餉の支度に取り掛かっていた彼はその手に持っていた包丁を置き、どうかしたのかと目線で説明を促した。誤魔化しが利く相手ではないことは重々承知していたので、ウィルは今朝の顛末を正直に話して聞かせた。 「そう、やっぱりウィルも気付いてたの」 「も、ってことは……他にも?」 「ヤードとカイル、あと護人サン達は全員気付いてるんじゃないかしら。ソノラや子供たちはまだだけど、時間の問題ってとこね」 「…………」 「原因は……まあ予想はつくけど」 人畜無害なようでいて、意外に食えない性格をしているレックスが心を乱す要因は限られている。それは大きく見て二つ存在するが――どちらか一方が起きればもう一方もほぼ確実に絡んでくるので、ただ一つと言いきっても過言ではなかった。 即ち、彼が持つ剣とそれを狙う存在。 「あの隊長さんとセンセが同僚だったっていうのは本人の言だけど、どう考えたってそれだけじゃあないわよね」 気に掛けるあまり、身体の調子を崩してしまいかねない程の存在など。 「何となく、そういうことなんだろうというのは僕にでも分かりました。けれどどうして、そうならそうと言わないんでしょうか」 「その辺は大人の事情って奴かしらね。本人も見透かされてるのが分かってて黙ってるみたいだけど」 火にかけられていた鍋の蓋がごとごとと音を立て始めた。スカーレルは塩を少しと刻んだ野菜を加え、均一に茹で上がるように菜箸で軽く掻き混ぜる。 「センセにとって隊長さんとのことは、誰にも触れられたくないってことなんじゃないかしら」 「……僕達にも?」 「男と女ってのは、そういうモノよ」 ふふ、と意味有り気にスカーレルは笑う。ウィルにとって正直それは未だに不可解な感覚ではあったが、思い返してみるとアズリアと対峙しているときのレックスの表情は自分が知る彼のどの表情とも違っていた。 自分よりもずっと年上の人間が、泣き出す寸前の子供のような瞳をしてあの女隊長を見つめていた。あのときのレックスの横顔と悲痛な声は、今でもウィルの脳裏にも焼き付いている。 それ程に身を焦がす感覚が、今もなお彼の中に巣食っているのだろうか。 「そういえばね、前にセンセと丁度そんな話をしたことがあったの。さっきアナタが訊きにきたこと」 「僕が……?」 そもそも、自分がここに来た目的は何だったか。 (先生が、食事のメニューについて何か頼みに来たか尋ねに……) 今朝、廊下で彼を捕まえて話したこと。 つまりは。 「好きな……食べ物? 先生の」 「そう」 スカーレルはそこで言葉を一旦切ると、それまで止めていた手を再び動かし始めた。俎板の上の魚が手際よく捌かれていく。視線を手元に固定したまま、誰に聞かせるでもない風に再び言葉を紡ぎ出した。 「前にアタシが食事当番だった時に訊いたことがあったの。何か食べたいものはあるかって。その時は話が帝都のすんごく高級なレストランのことにずれ込んでいっちゃったんだけど、その後改めてセンセは何が好きかしらって尋ねてみたのよ。……何て答えたと思う?」 「何て、って」 あの人の好みなんて、そういえば全く知らない。 知らないもののことなど尋ねられても答えようが無い。一瞬言葉を詰まらせたが、スカーレルが無意味な問いかけをしてくる人間でないことはウィルもよく理解している。何らかの意図あってのことだろうと判断し、視線で説明を促した。 その反応を受け、スカーレルは微笑とも苦笑ともつかない曖昧な表情を浮かべる。 「何もない、ですって」 「……え?」 「何もなし。正確に言うと“何でも好き”ってことだったけど」 「……それは、ちょっと解釈の仕方が違いませんか?」 だって何でも好きだなんて、いかにもあの人が言いそうなことだ。実際レックスはこれまで、食事はで出されたものはいつも美味しいと言って全部平らげている。タコ以外は、 「まあ、これがカイルあたりが言ったことだったらアタシもどんだけ食い意地張ってんのよって突っ込めるところなんだけど」 「何か、引っ掛かるところでもあったんですか」 そう尋ねるとスカーレルはそれまで動かしていた手をぴたりと止めた。その様子はどう話したものか思いあぐねているようだった。綺麗に整えられた弓型の眉が珍しく困ったように寄せられている。 「それだけじゃなかったのよ。ほら、アタシ達って何だかんだ言いつつもまだ出会ってからそんなに経ってないでしょう?」 「ええ、まあ」 様々なことが目まぐるしく起こりすぎて失念していたが、実際はこの島に来てからはまだ一月も経過してはいないのだ。 「やっぱり相互理解は大切だからね。色々質問してみたりしたのよ、センセに。好きな色とか、本とか、季節とか。そしたら何て答えたと思う?」 先刻と全く同じ問い。だが、今度はその答えはウィルにも容易に想像がついた。わざわざこんな訊き方をしてくると言うことは。 「……まさか」 「そのまさか。センセは何を尋ねても、みんな好きだってしか言わなかったわ。……何でも好きってことは、つまりセンセにとっては全部同じだけの価値だってことでしょう?」 「…………」 「それって、何一つ好きじゃないってことと同義なんじゃないかってアタシは思うの」 好きなものというのは、他に比べる対象があって初めてその価値が分かるものだ。それなのに、どれも皆同じだと、同じように好きだと言ってしまったら、それは。 (――――あ) ふと、ウィルは生家であるマルティーニ家の屋敷を思い浮かべた。名高い豪商であるマルティーニ家はその邸宅も名声に似合った見事なものだった。広大な敷地をぐるりと塀で囲み、門を潜るとこれまた優美な庭園がある。そこを抜けることで漸く白亜の館の入口に辿り着くのだ。 (あの人は――あの屋敷に似ている) そして自分達は今、丁度その屋敷の玄関口にいるのだと唐突に思った。 普通の人間は、塀の向こうから垣間見える庭と館の美しさに感嘆の声を上げながら通り過ぎる。遮る塀自体も上質の煉瓦と繊細な細工が施されていて、見る者の目を引き付けるのだ。上辺の優美さに満足して、それ以上踏み込んでくることも、また踏み込ませることもない。自分や他の仲間たちはその塀の内側にいるのだ。そこには外からは決して見ることのできない美しさがあり、ただ眺めるだけでなく五感で感じられる身近さがあった。 だが、まだ館の中には入れない。 荘厳で華麗な館の入口には内側からしっかりと施錠されていて、どんなに開こうとしてもびくともしないのだ。扉に耳をつけて眼を閉じれば、内部のどんな些細な音も――呼吸音すら聴きとれそうな程の距離に居るのに、しかし板一枚の隔たりが確実に存在して侵入を拒んでいる。 すぐ近くにいるようで、そこには絶対的な遠さがあった。 「どうしたの? 急に黙り込んで」 「あ……」 はっと我に返ると、スカーレルが不思議そうにこちらを見ていた。何でもないです、と首を振ってその視線をやり過ごす。ただ、今考えていたことはきっと事実だろうという確信がウィルにはあった。 自然、乾いた笑みが口の端に浮かんだ。 「……もし僕が、僕とスバル達とカイルさん達と、……島に居る全ての人達と、誰が1番好きですかって訊いたら。あの人は何て答えるんでしょうね」 「……さあ、どうかしらね」 ****** 温い夜風が頬を撫でる。今夜は晴れてはいるものの雲が多く、月はその帳の向こうに隠れてしまっている。水滴の塊を通して零れる僅かな光は、甲板に立つ青年の輪郭をぼんやりと象った。 「夕食はちゃんと食べたみたいですね」 「まあ、怒られちゃったし。流石にこのままじゃまずいかなって思ってさ」 「…………」 ははは、と軽く笑う様はおどけているのか本気なのか判別がつけ難い。ただどことなく、普段のそれに比べて乾いた笑みのように感じられた。 「貴方のその態度は食事当番の方に対してとても失礼なように思えますが」 「それを言われると弱いなあ。でも決して好き嫌いで残してる訳じゃあないんだよ?」 「そんなことは分かってると今朝も言いました。大体貴方、好き嫌いなんて無いんでしょう?」 「あれ、知ってるの? 俺そんな話したことあったっけ」 「聞きました。スカーレルから」 「ああ」 成程ね、とレックスは得心がいったように頷いた。その様子がどうにも白々しく思えて、ついついウィルは語気を強めた。 「先生、先生には何か、“特別なもの”はあるんですか」 「……ウィル?」 レックスが瞠目するのが暗闇でも判った。 これは八つ当たりだ。そんなことは分かっている。分かっているが止められなかった。親しくなれたと思っていた人の、実際確かに親しくなった人の、その内にある壁を見付けてしまったことへのどうしようもない憤りだ。この人はいつだって笑顔の仮面を被って周りの人間を拒絶する。 恐らくその壁の向こうに入ることができるのは、ウィルが知る中でもただ一人――彼が泣きそうな瞳で見つめていた、あの人だけなのだろうと確信できた。 「……貴方は、ちゃんと僕達のことが好きですか……?」 訪れた沈黙を微かな波音が際立たせる。レックスは依然口を開かない。彼がこれから言うであろう言葉を、ウィルは沈痛な面持ちで待ち構えた。出来ることなら今すぐ笑って誤魔化してしまいたかった。 (聞きたくない) (聞きたくない) (……皆大好きだよ、なんて言葉は聞きたくない) 皆なんて人、どこにも居ない。 「俺に、特別なんてないよ」 「え……」 静寂を破ったのは、ウィルの想定していない言葉だった。レックスはまるで痛みでも堪えているかの様に、顔を歪めて立っている。その表情は嘗てウィルが垣間見た、“彼女”と対峙したときと同じものだった。 「好きなものはあるよ。どんな色も季節も食べ物も、人も。それぞれの良さがあって、悪さがある。そういうの全部ひっくるめて好きだなって思う。だからどれも好きだっていう言葉に嘘はないよ」 皆同一としてではなく、それぞれの価値を慮った上で好きなのだと。赤髪の青年は穏やかに微笑む。だがその深青の双眸は、夜の闇の中に沈んだままだ。 元々色素の薄い膚は月明かりの中では更に白い。まるで剣を抜いた時の様な風貌のレックスのうち、唯一髪だけがその存在を主張るかの如く紅々と燃え上がっていた。 「もう失ってしまったけど、その存在が、その人だけが俺の特別だった。だからあの手を離した時点で、俺の中から特別な存在というものは永遠に空白になってしまったんだ。他のものなんて代わりにならない。かけがえの無い、ただ一人の特別なひと」 代わりなんてない。比べることなんて出来ない。本当にただ、それだけが。 「アズリアだけが、俺の“特別”だったんだ」 この人は些か純粋すぎる気がするとウィルはいつも思う。 勿論大人としての計算高さや狡猾さは普通に持ち合わせている。ただ自分以外の他者へ向ける気持ちが余りにも真っ直ぐすぎるのだ。 あまりに透き通った水には魚は住めない。この想いを向けられる相手は、さぞかし幸せであり不幸せだっただろう。あの女隊長――アズリアも、その息苦しさに気付いていたからこそ、彼が自分から離したというその手を繋ぎ返すことはなかったのだ。全ては憶測でしかないが。 もう二度と手に入らないと彼は言った。それが本当かどうかは分からないが、少なくとも彼と彼女が共にあった時間は戻らないのは確かだ。レックスはずっと、その思い出を抱えながら生きてゆくつもりなのだろう。誰も入れない館の奥で、扉に幾重にも鍵をかけて。 「……それでも。自分を追い込むような真似はもう止めて下さい。今貴方が倒れたところで事態は何も変わらないんだ。……それに」 ぐ、とウィルは唇を噛み締めた。自分の言おうとする言葉が、彼のあまりに真摯な想いの前ではどうしようもなく陳腐に感じる。けれどそれでも、伝えなくては。 「貴方が思っている以上に、僕達は貴方が好きなんだということを……忘れないで下さい」 レックスが小さく息を飲んだのが気配で分かった。こんな言葉でも届いただろうか、伝わっただろうか。たとえ伝わらなかったとしても、 「……ありがとう」 自分達に出来ることは、鍵の掛けられた扉の前でただ声を上げてノックをするだけだ。扉を開くことは無理でも、きっとその中まで声を届けることはできるから。そしてほんの少しでも、そこに在る隔たりが薄くなればいい。 願わくばどうか、彼の空白が再び満ちる日が来ることを祈って。 end. 戻る |