Although I know it ――気配を殺し、足音を消してゆっくりとにじり寄る。 「…………」 「…………」 どちらとも無く視線を交わし、こく、と小さく頷いた。 勝負は一瞬。機会は一度。掌に緊張の汗が滲み、頬が強張る。 そして。 「「今だーーーっ!!」」 どかっ!ぶちぶちぶちぶちっ。ガラガラガラ……ゴンッ!! 「うわあ!?」 「痛っ!!」 「……何をやっているんだお前達はっ!!」 とある日の、穏やかな昼下がり。抜剣者一家の玄関前で、何かがぶつかり合って壊れた物音の後に、物凄い怒声が辺り一面に響き渡った。 ****** 「つまり何だ? 珍しい蝶がいたので捕まえようとしたが中々捕まらなかったと。それで二人掛かりで追い詰めた所、対象は玄関前にある物干し台の方へと向かった。そして洗濯物の一つに翅を休めたので、そのまま一気に捕まえようとしたら勢い余って突っ込んで、物干し台が倒壊したんだな?」 「「……はい」」 アズリアは額に手を当てると、深々と息を吐いた。長椅子に腰を下ろし、眉間に皺を寄せる彼女の前で、その配偶者と弟はしゅーんと縮こまっている。 「「ごめんなさい……」」 俯く角度から眉尻の垂れ具合、謝るタイミングまで面白い位にピタリと一致していた。 アズリアはそんな情けない男二人の様子に再び溜息をつくと、心底呆れたといった風に言葉を発する。 「謝罪はもう聞いた。本当に悪いと思うなら、きちんと態度で示しなさい」 「はぁい」 「もうしません……」 もう一度揃って頭を下げると、二人はとぼとぼと後片付けに向かって行った。その小さくなった背中を見つめ、アズリアは更にまた溜息をつく。いつも遠慮のないレックスは勿論のこと、寵愛している弟のイスラも、こういう場合は甘やかしたりはしない。悪いことをした時にきちんと叱ってあげることもまた愛情だと、彼女は知っている。 「全く、この歳で二人の子持ちになった気分だ」 背凭れに身体を預け、アズリアは天井を見上げた。イスラはともかくとして、どうしてレックスの面倒まで見なければならないのか。アズリアは渋面を作ると駄目押しにもう一つ、今までで一番大きな溜息をついた。 (昔からそうだ。あいつはどこか子供っぽい所があって、そのくせ一歩引いた目線で周りを見ていたりする、どうにも掴めない奴だった。ドンくさくて間抜けでお調子者で、なのに人一倍鋭くて……) いつでもニコニコと笑っていて、ぼんやりしているのに武術も学問も人並以上で、笑顔の中にも影があって――――。 「とにかく、訳の分からん奴だ」 ****** 「……で?」 「で、って」 お前は何とも思わないのか、とアズリアは大真面目な顔で目の前に座る女性に言った。 薄茶色に波打つ髪に、同じ色の瞳。眼鏡の奥の理知的な光を宿した双眸が、今は呆れたように細められている。 機界集落ラトリクスの護人・アルディラは、今のアズリアにとっては気の置けない良き友人だ。彼女は啜っていた茶を脇に置くと、顔にかかる髪を軽く払った。 「貴女ねえ、久々にお茶を飲みに来たと思ったら、そんな話をする為なの?」 「え、あ、いや」 あからさまに不機嫌そうに――というかウンザリした様に顔を顰められて、アズリアはとりあえずこの話題は打ち切ることにした。何でか分からないが、彼女の気に障ったようだ。 ……自分の伴侶をどう思うかなどと問われて、大抵の人間がどう感じるか、アズリアは勿論そんなことは理解していなかった。 「実は、その……、礼をしようと思ってな」 「礼?」 ああ、とアズリアは頷いた。 アルディラは軽く眉を上げると、暫し逡巡するように宙を見つめる。そうして何かに思い当たったように、ふと視線を目の前の人物に戻した。 「ひょっとして、いつかあげたフリーザーのこと? あれは試作品だからお礼なんて別に」 「いや、違う」 いいわよ、と続く台詞を遮り、アズリアはふと俯いた。その耳朶や頬が、僅かに赤い。 「先日の……、その、」 歯切れの悪い台詞と、恥ずかしそうな細い声。アルディラは微かに眉を寄せたが、すぐ合点がいったように声を上げた。 「ああ、貴女のドレスのこと?」 「……っ!!」 ずばりと言い当てられ、アズリアは瞬時に真っ赤になる。アルディラはそんな彼女を見ると、ふっと優しい笑みを浮かべた。――本当に、見ていて飽きない。この正直な友人は。 おそらく律儀な彼女のことだから、島の者一人一人にお礼を言って回っているのだろう。 (本当、真面目なんだから) けれどそんな彼女だからこそ、自分達も進んで背中を押したくなるのだ。……きっと彼も。 「気にしなくて良いわよ。私がやりたいからやったことなんだし、花嫁は祝福されて当たり前でしょう?」 「けれど、」 肩をすくめ、小さく笑ってみせるアルディラの瞳を、アズリアは顔を上げて真っ直ぐに見据えた。その眼差しに込められた真摯な光に、アルディラは思わず瞠目する。 そして次の瞬間、その双眸は弓月のように細められ、眼前に座る黒髪の女性はくしゃりと子供の様に破顔した。 「嬉しかったから。有難う、アルディラ」 そう告げたアズリアの表情はきらきらと輝いていた。先日の婚礼を思い出したのか、目元も僅かに潤んでいる。心底幸せなのだと、誰が見ても分かる程に温かさに満ち溢れた笑顔だった。普段はきりりと引き締められた顔をしている彼女が、こんなにも柔らかに笑うのを見て、アルディラもまた自分の心にぬくもりが広がるのを感じた。 ――数ヶ月前、すべてが終わった後。アズリアは記憶を失った弟と共に、島へと残ることを決めた。始めの内は不安と焦燥を拭いきれずにいた彼女の顔が、それからの日々を過ごすうちにどんどんと穏やかになってゆくことを、自分を始めとした島の住民の誰もが喜ばしく思っていた。もう随分前のことになるが、帝国軍の隊長として自分達やレックスと敵対していた頃のアズリアの表情もまた、あの時と同じ様に痛々しかった。やがて和解を果たしてからも、今度は彼女は最愛の弟と刃を交えることとなり、幾ら皆の前では気丈に振舞っていても、本当は泣き出したいくらいに辛いのだろうと、付き合いの短い自分達にもその苦痛は容易に見て取れたものだった。 そんなアズリアを常に支え続け、笑顔と安息をもたらしたのは、他でもないあの赤毛の青年だ。自分の過去を失ってしまった弟を前にして、彼女が絶望の淵に沈まなかったのも、きっと彼という存在があったから。 そうして今の今まで彼が彼女を守り続けた結果が、この笑顔だ。 島を救った英雄であり、共に戦った仲間であり、何より大切な友人である彼らの幸せを、アルディラは心から嬉しく思った。 「……私はただデザイン画を描いただけよ? 実際にドレスを縫ったのはラトリクスの機械だし、刺繍を入れたのはユクレス村や風雷の郷の女性陣だし……、でも」 そこで一旦言葉を切ると、アルディラもまたアズリアの瞳をひたと見つめ返し、続けた。 「喜んで貰えて嬉しいわ。どういたしまして」 そうしてにこりと笑ってみせると、アズリアもまたにっこりと頬を赤らめて微笑んだ。二人の女性が共に笑う、その様子はまるで陽だまりに咲く華のようだった。 「本当、良い顔で笑うようになったわね、貴女。つくづくレックスには感服するわ」 そう言われた瞬間、アズリアは思わず手に持ったカップを取り落としそうになった。慌てて取っ手を持ち直すと、空いた手で動悸を抑えるように胸を押さえる。 「な、なんでそこであいつの名が出るんだ!!」 「なんでも何も言葉の通りよ。口では色々言ってるけれど、レックスと居るときの貴女は本当に良い表情をしているわ。余っ程幸せなんでしょうねえ。わざわざ私の所へ来て惚気るくらいだし」 「の、のの、のろ……!?」 「あら、違うの?」 「当たり前だろう!!」 ぷりぷりと怒るアズリアとは対照的に、アルディラの声はどこか楽しそうだ。どうやらこの生真面目な友人は、結婚した今となってもこんな調子らしい。 (レックスの胸中が忍ばれるわね) そんなことを考えくすくすと笑うアルディラに、アズリアがなお文句を言おうと口を開いたそこに、丁度別室で仕事をしていたクノンがやって来た。 「失礼します、アルディラ様、アズリア様。レックス様がお見えです」 「あら、お迎えが来たみたいね。仲良く帰るのよ?」 「……っ!!」 完全に面白がられている。 アズリアは言い返したい気持ちで一杯だったが、弁舌でこの友人に敵うはずもないと悟り、出掛かった言葉を押し込めて出口へと向かった。 「どうも、ご馳走様!」 「はいはい、こちらこそゴチソウサマ」 「アズリア様、顔が赤いようですが、もしや熱でも……」 「ななななんでもない、気にするな!!」 事情を知らないクノンの台詞を聞かぬうちに、アズリアは大股でその場を後にした。その背後からはまだ笑い声が響いていた。 ****** 肩を怒らせて出入り口へと歩いてきたアズリアの目に飛び込んだのは、夕陽を受けて輝く赤髪だった。その人目を引く色彩が、今の彼女の心境では実に腹立たしい。 (私がいつ、あんな奴のことで惚気たというんだ!) くどいようだが、自分の伴侶をどう思うかなどと問われて、大抵の人間がどう感じるか、彼女は勿論理解していない。 そんな心境を知らずに、レックスはにこやかに声を掛ける。 「あ、迎えに来たよーアズリア」 「片付けは終わったんだろうな?」 低い声色で、殆ど語末に被るようにして言われたその台詞に、レックスは少しだけ鼻白んだ。 「え、うん、洗濯もし直したし、物干し台もばっちりだけど。ねえ、アズリア?」 「何だ」 じろりと鋭く睨まれる。だがレックスは今度はそれに怯むどころか、ニンマリと楽しそうに笑ってみせた。まだ怒っているのかとも思ったが、よくよく見れば耳朶が僅かに赤く染まっている。……ひょっとして。 「アルディラに何か言われたの?」 「!!」 どきりとアズリアは身を竦ませた。その反応で、レックスは自分の予想が当たっていたことを確信する。 「茶化されたんでしょ、俺とのこと」 「な……っ」 大きく目を見開いて、ぱくぱくと口を開閉するアズリア。そんな分かり易い反応に、さぞかし揶揄い甲斐があったことだろうとレックスは口の中で小さく笑った。 「何て言われたの? 俺みたいな素敵な旦那様がいて、アズリアは毎日幸せそうだって?」 「そ、そんな訳あるか!話していたのは貴様の馬鹿さ加減についてだ!!」 「あ、やっぱり俺のこと話してたんだ」 「あ……」 しまった、とアズリアは口を塞ぎ、その行動でかえって墓穴を掘った。これではその通りだと認めることになる。案の定、隣にいるレックスはしてやったりといった顔でこちらを見て微笑んでいる。アズリアは自らの迂闊さを呪うと同時に、――悔しいが、それを何処かで嬉しく思っている自分が居ることを、認めざるを得なかった。 そしてきっと、そんな想いすらも見抜かれていることも。 (いつもこうだ。結局こいつには、私の考えていることなんて何もかもお見通しなんだ……。昔から) ――ずっと、一番傍にいたのだから。 楽しい時も、哀しい時も、一番辛かったあの時も。彼はいつでも、自分の考えなどお見通しなのだ。自分が彼を理解しているのと同様に。 子供っぽくて、お調子者で、けれど人一倍鋭くて。 誰よりも、自分を理解してくれるひと。 くすくすと、いつものように笑いながら。レックスはなおもアズリアへと問い掛ける。 「ねえ、どんな内容だったの?」 「五月蝿い。そんなもの自分で考えろ」 (どうせ分かっているくせに) むくれたように顔を背け、アズリアはスタスタと歩き出した。橙色の光が滲む中、その背中をレックスは微笑みながら追い掛ける。 遠くに見える空の果てに、小さな星が仄白く光っていた。 (分かっていても、君の口から聞きたいんです) そう言ったらまた怒鳴られるんだろうなぁと、レックスは星を見上げて苦笑した。 end. 戻る ・おまけ・ 「楽しかった?」 「ええ、とっても」 「それはそれは。でも、次はないよ?」 「あら。独り占めする気?」 「勿論」 ****** 「だって俺のものだから――か。ねえ、クノン」 「何です?」 「笑顔で釘を刺す人間程、食えないものはないわ。覚えておきなさい」 「? はい……」 ****** 「……ということを言われたのですが、どういうことなんでしょう」 「う〜ん、そういえばせんせい、物干し台を修理してたときとか、笑いながら釘打ってたかも」 「では、レックス様は食べられないということでしょうか?」 「でも、せんせいじゃなくても人を食べたらだめだと思うよ?」 「そうですね……」 食えない者同士のやりとりと、分からない人同士のやりとり。 おしまい。 |