あだし野の老鬼
昔あだしのといふところに男とその妻ありけり。
男老いてなほ身清く廉らなる姿なり。
子数多ありて皆よく努め折々に贈り物など持ちて老人を訪れぬ。
男これをおおいに喜びき。
男小冠者にありしころより宮にあがりて君によくお仕え申す。
清げなるすがたにして様々のことよく識り君これを愛好し給う。
しらく綿をまといしかぶりはこがねがごとき御髪たたえ皺にかくりし瞳望月をもたん。いときらげにありけり。
男老いしのちちかく病みて伏す。
まもなく召される身なれど妻よく男に従いこれへの寵愛さかんなり。
されど男こころかれのをかけかつてまみえしぬばたまの黒髪をば床に思いき。
妻知りぬ。
妻の申すに、うつくしげなる月にありき。
げに君おはせばなむおまへのまなこにありきといいぬ。
妻、男に長年の思ひ人ありしと知るもとかめることなし。
病の深さにたもとぬらすのみなり。
男の思ふは君なり。
そ人人にあらずあやかしの力をもちて以て今上にもさらにありたまふ。
閻魔大王におはす。
人みな許すまじ。
羽虫のにぎやかしきに男にわかに失す。
いとおだやかなる姿にありけれ。
かたがたより子列をなして古老の身体をおしみき涙垂れあだしのをばうるおさん。
妻文をばしたためん。
男のひたすらに慕いし君へ男の失すを聞かせ奉らんためなり。
やまさくらのころあだしのへ行幸し奉る。
身返さんとし給いしに妻唐滋の壺を託し申し上げ給ふ。男のなきがらなり。
ときなく妻失すもふたたびの行幸なし。
男のすみかいまはなく縁ありしなにがしといふ者あだしのを治めるときかん。