「おはよう、妹子」
「おはようございます」
レースのカーテンを透かして、白いシーツに太陽が染み込む。
隣の体温は温かくて、ゆるやかな幸せに頭がぼーっと…
「ってもう7時半じゃないですか!」
コノヤロ〜私を誰だと思っとるんじゃい〜と力の抜けるような叫びを上げる男を、素早くバスルームに投げ込む。
そして僕はフライパンを火にかけた。
料理なんて覚えたのは、こいつの所に来てからだ。
その前は、別のやつの所に居た。そこでは料理はどこからか来た優しいおばさんがやっていて、僕は大体ソファーかベッドの上でぼーっとしていた。
壁やソファーやベッドと、僕はその時話をしていた。
今考えれば大変不気味だけれど、それまでの僕には本当にそれが出来た。
しばらくして料理が並ぶとおばさんが僕を呼びに来て、2人でご飯を食べた。
その時の主人が居た時は、主人と僕の2人で食べた。
3人が食卓に列ぶことはなかった。
おばさんと僕、2人の時、彼女は時々泣いた。
彼女には、僕と同じ歳位の子どもが居るのだという。
僕が可哀相だと言って、泣いた。
僕は年齢より若く見られるから、きっとその子は本当は僕より年下なんだろう。
最も、その歳さえ後から聞かされたもので、本当かどうかは分からない。
僕には戸籍がなかった。
最初の記憶はどこか自然光の入らない部屋の中、鉄の扉の向こうから、時々大人が覗いていた。
そこに居たのは僕1人ではなかったけど、言葉を交わしたことはなかった。
僕は言葉を知らなかった。
男の子も女の子もいたけれど、多分誰も言葉を知らなかった。
ある日、カーペットを毟っていたら、大人が僕を外へと連れ出した。
そこから僕の放浪が始まった。
色んな人に出会って、いつの間にか別れた。
怖い人もいたけれど、別れ際、僕を黙って抱きしめる人も居た。
後から太子に聞いた話だが、僕の譲渡には結構な額のお金か、それ相応の物が動いていたそうである。
僕は何も知らなかった。
人間と話なんてしたことなかったから。
「妹子〜腹減ったぞぅぅ」
「うっさいですねーもー。適当に作ったから勝手に食え!」
お前ほんと、容赦ないのな、なんてぶつくさ言いながらも素早くトーストに手を付ける。
僕は仕方ないなぁと思いながらも、鞄とコートを取りに行く。
全く、こんなにせわしなく働く毎日は人生で初めてだよ。
「迎え、もう下まで来てるそうですよ」
「えぇ〜この早男が!もっと食べたいぞ!」
と言いながら、僕の作った飯を時間ぎりぎりまで詰め込み続ける。
馬鹿な奴だ。
「知らない人が来たら、ドア開けちゃ駄目だぞ。出掛ける時は、ちゃんと鍵かけて、携帯持って」
「あんた携帯持ったんですか?」
「…あぁっ」
「鞄の中に入ってますよ」
おぉぉ、妹子すごい!と言う彼に、朝一番の溜息が零れる。
「ほら、エレベーター来てますよ」
「おう!あ、夕飯までには帰るから。先に寝ないでね。まぁ眠くなったら仕方ないけど…あぁっでも」
「寝ないよ!…早く行って下さい、社長さん」
ばたばたと廊下をかける途中、見送りに出ていた僕を彼がふと振り返る。
何だと仕種で問えば、混じり気のない笑顔で答える。
「妹子、事務からでもさ…うちの会社で働いてみないか?」
思いもよらぬ言葉に目を丸くする僕を尻目に、考えておいてよ!と言って、エレベーターまで転びながら走って行く。
僕はこの家に来て、人間を始めた。まだまだ特殊な存在だけど。
これから、このマンションの、最上階のこの家のずっと下を世話しなく行き交う人間たちのように…
普通の人間として生きる、そんな時間が訪れるのかも知れない。
いつか、きっと。
近い未来に。
ひとしきり妄想した後、何だか恥ずかしくなった僕は、朝ご飯でも食べようと、我が家へと足を向けた。
fin.