くすんだ色の壁。
それだって元は純金で塗装がしてあった物だが。
それが青い鬼火に照らされ、キラリと間々に輝く時が有る。
僕は今、目の前で消え行く美しい存在とそれを重ね合わせて見ている。
そうして痛む胸に、己の心がまだ温かい事を知り、安堵の溜息を漏らした。
センチュリー・ラバーズ
「…その件はまだ、公にはできないでしょ」
思えば、彼と上役の一人の立ち話を偶然耳にしたのが始まりだった。
否、本当はもっと昔に何もかも始まっていたのだが、僕は何も知らなかった。
何一つとしてその時起こっていたことなんて知りもしなかったのだ。
そう言う訳で、僕がその不穏な陰の片鱗を初めて捉えたのは、確かその時だった。
いつもの調子で話す彼の声色の微かな違和感に、僕は必要以上の不安感を覚えたのだ。
いつも飄々としていて、人を食った様な雰囲気の…―それは彼が他人より何倍も生きているせいもあるのだろうが―彼にしてはめずらしく、どこかなただらぬ空気を感じたのだった。
そう、そしてそれが単なる杞憂では無かったと、後に僕は身を持って知る事になる。
「大王」
「ん、何?鬼男君」
彼は僕の隣で、白い羽布団にそれ以上に生白い肩を横たえたまま答えた。
赤い瞳に青い鬼火が写り込んで、幻想的な光を放っている。
僕はいつもそれを彼に伝えたいと思う。
しかし、僕の感じた美しさや愛しさは、いつだって生半可な言葉には成れず死んで行く。
そして僕の心の中で海の雪みたいに漂いながら、拡散することも無くただ無限に沈澱するのだった。
「今朝、大極殿の庭先で餓鬼中将と話ていたでしょう」
「…ああ、そういえば!何だ見てたの?エッチ!でも心配しないでね、俺は鬼男君以外には…」
「大王」
「ちょっと話最後まで聞いてよ!俺は鬼男君以外」
「大王!そんな事はどうでも良いんです。それより話の内容、あれは…」
「どうでも良くなんか無いよ!」
唐突に、赤い瞳に強い光が宿った。
驚いて目を見開いた間抜けな僕の姿が、そこには写っていた。
「聞いて、君以外俺は愛せない。君だけを愛して居るからね」
ずっとずっと、と言いながら、冷たい指が僕の頬に触れた。
僕は思わず、その手に触れてギュッと握り締める。
いつもなら、気味悪ぃんだよなんて軽口を叩くパターンだ。僕達には辛気臭いのは似合わないことは重々承知である。
しかし思えば僕達は、この時―…
運命に逆らわない事を、決めた。
それから数カ月。
冥界・閻魔庁は、しんと静まり返ってその最期を待っている。
冥界は今、正に滅び様としているのだ。
原因は下界だった。
人間という生き物が永遠の命を手に入れる方法を見つけたのだ。
天国だとか地獄だとか死後の救いを乞う者は居なくなった。
天は人心を失った。
進化という物は不必要な器官を退化させて行くらしいが、その法則に従い冥界は今消え様としている。
片手に掲げた青白い蝋燭の炎をゆらりと揺らして、反対の手で彼は壁の細工に触れた。
闇に浮かんだ白い指先が色っぽいなんて、場にそぐわないことを僕は思った。
「そろそろ…終わるね」
長かったなあ、と独り言の様に彼は呟いた。
僕が生まれるずっと前からここに居て、人間達を裁く体裁を取ってその実誰より彼らに尽くした彼の存在ももうすぐ終わる。
あれだけ裁きに心を砕いて、あれだけ人間に愛情を傾けた彼の最期が外ならぬ人によって齎され様としているのだ。
まるで親殺しみたいだ。
「良かったよ、人って心が在るから生き物の中では一番死を恐れていたもの」
残酷な子供、どこまでも自己犠牲的な親。
彼の指先を一筋の赤い雫が伝う。
震えて零れた水滴の下には頭の無い極卒の亡きがらが転がっている。
「本来死のない筈の彼らに、死の恐怖なんて味あわせたくないものね」
彼は太古の昔に一度死に臨んだことが有るらしい。
それを愛しい部下に強いることが、彼にはどうしても出来なかった。
だから何も分からない内に、と似合わない真面目な顔で彼が僕に告げた時、僕は断ることなんて考えもしなかった。
そして今粛清の返り血に染まった僕を、同じ血に染まった彼が見つめる。
冥界はしん、と静まり返りもう何も言わない。
何処かで世界の一部が崩れる音がした。近い、先程から徐々に音が近付いて来ている。
ここの崩壊も近い。冥界の心臓、閻魔庁。
「鬼男くん、行きたい所が有るなら行きなさい。もう、すぐだよ」
残っていれば良いけどなぁと心許なげに言って困った様に笑う、かつての楽園の王。
一番悲しいのは自分の筈なのに、ここまで来て僕を気遣う。
「何処にも行きませんよ、もうここには誰も居やしないじゃないですか」
「アハハ、それもそうだね。俺達二人っきりだ」
「二人っきり…ですか。こういうシチュエーション、ちょっと前までだったら大歓迎だったんですけどね」
「エロいね」
そう言って肩を震わせて笑う姿は、まるで何も無かった頃のままで。
黒い髪の先や爪先から滴って弾ける赤い水滴だけが、現実へと引き戻す傷みの様にやけに鮮やかだった。
あんたに言われたくねぇよ、と言って靴の先を赤い水溜まりに泳がせる。
同じ色の血液を透かす瞳が見えるまでゆっくり近付いて、後は掻き抱いてキスをした。
彼の手から滑り落ちた燭台が地面に着いて、ジュッと言う音を立てて火が消えた。
一瞬青い炎と赤い血が仄めく闇の中で交わって、僕の知る中でそれは二番目に美しい光景だった。
その時、僕たちの頭上で天が砕ける音がした。
激しい轟音と崩れる天井のもとで逆に僕の心は穏やかでとても澄んでいた。
「大王」
「何?」
「あんた、とても綺麗ですよ」
「…見えてないくせに」
分かるんですよ、これが愛って奴です。
と言うと、僕の腕の中で姿の見えない彼が微笑んだのが分かった。
世界が白み始めた頃、鬼は神に聞きました。
神を必要としなくなった人間はこれから、何処へ向かうのかと。
自らに無償の慈しみを与えてくれる存在を疎ましく思うこと。
それは、愛を受けることが出来ないということになるのではないかと。
神は何も言いませんでしたが、鬼は最期の一刹那、その腕に温かい雫が一つ落とされるのを確かに感じました。
『これがこの世で最後の恋人達の物語』