化野の老鬼
昔あだし野というところに、年老いた鬼とその妻が住んでいた。
一族は子孫その孫まで大きな繁栄をとげていて、冥界では名のしれた貴人のひとりだった。
子ども達は人柄のよい老人に敬愛をもち、ことあるごとに美しい贈り物をもっては彼の元をおとづれた。
隠居の身ながら彼は幸せだった。
老鬼はかつて冥界閻魔庁の夜摩天閻魔大王におつかえしていた。
美しい容姿と誠実な人柄で王の信頼のあつい男だった。
今はわたぼうしをかぶったように白い髪は黄金のように美しく、皺につぶれた人の良い瞳は満月のように爛々と輝いていた。
「あなた、お加減はいかがですか」
「ああ今日はだいぶ気分がいいよ」
老鬼の命は尽きようとしていた。
妻は彼と添ったときから身も心も彼につくし、彼はなにより妻を大切にした。
しかし二人の間には秘密があった。
誰にも知られてはいけない、二人の心の中だけに閉じ込められた秘密だった。
それは閻魔大王の事だ。
「今日は月が美しいですね」
「ああ、そうだね。あの人がみていたら…」
君の瞳のようだねといって笑っただろう。
老鬼は妻をめとって以来、あの人、閻魔大王の事を口にしなかったが今の彼はひどく衰え妻にさえその人の話をした。
かつて愛した男の話を。
いや、今も。
妻はすべてわかっていた。知ったうえで彼と生きていくときめて、それをつらぬいてきた。
それは老鬼もおなじだった。
老鬼はかつて閻魔大王の恋人だった。
今も若く美しく冥界に君臨する王君とこのおいさらばえた鬼が恋仲だったなどと、今となっては誰も信じようとはしないだろう。
だからこそ鬼は閻魔大王の元を去ったのだった。
永遠を生きる神といつか彼をおいて逝かねばならぬ、自分自身。
生み出してしまったくるしみがすこしでも軽くすむように、鬼は妻を愛することをちかい、閻魔にいとまをこうた。
「あなた、私はあなたと夫婦になれてしあわせでしたよ」
「私もだよ、私はおまえを愛している」
夫は神に誓った通りの言葉を妻へとささやいた。
秋が終わらぬうちに老鬼は死期をむかえた。
おだやかに、ねむるような最後だった。
大勢の縁者たちが方々から彼の死をいたみにおとずれ、化野の土は涙をすいこみしっとりとぬれたようだった。
妻はひとり、文をしたためた。
妻はすべてわかっていたから、すべてを許し見守ることしかできなかった哀れな人へ礼をつくさなければならないと思い、心をこめて筆をはしらせた。
次の春、閻魔大王が化野へ行幸なさった。
庁へ戻る際、老鬼の妻から彼の手へ白い骨壺が託された。
幾年もたたぬうちに妻も天寿を終えて召され化野へ葬られたが、閻魔大王が再び姿を見せることはなかった。
今となっては老鬼の屋敷がどこにあったかわからなくなっているが、その土地は彼の縁者のなにがしという者が受け継いでいるということである。
fin.
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愛しい鬼のなきがらは今も恋うた人の手のなかに。