「愛しています、貴方を」
玄関で黒い帽子を被り直してから、彼にそう告げた。
何も言わずに瞳を伏せる彼に、背を向けバルコニーを抜ければ緑の芝生を黒いエナメル靴が踏み付ける。
「憧れていたよ…」
君に、憧れていた。歩みを止めた僕の背中に彼が語り掛ける。
僕は振り返ることもせず、黙って彼の言葉を咀嚼する。多分僕は難しい顔をしていたけれど、何も考えてはいなかった。
「憧れていたんだ。君の姿に、声に、内面に」
堰を切った様に言葉は続く。僕の知らなかった彼の本心は濁流となって僕の延髄を走り、そのまま僕の中心に染み込んで行く。
「君は何時だって、夢の様な男だった。仕種も気遣いも甘え方も、全て上手で…私は自分が恥ずかしくなったよ。私は冴えない人間だ。」
「僕だって…」
「厚くて真っすぐな背中も、物おじしない瞳も、何かを企んでいる心だって私は…」
「僕は貴方が良かった。鋭い感性もセンシティブな内面も、ひそめる眉や時々見る物憂い笑みも魅力的だった」
「そんな…そんなもの何の価値がある!私は私なんて、嫌だ、嫌いなんだ。君がいいんだ」
「僕?僕になんて何の見所もないじゃないか。僕は貴方が最高だと思った。貴方が一番、注目を引いた」
振り返った僕と、立ちすくむ彼と、ぶつかる視線と噛み合わない思いが非常にアンバランスだった。
その危うさが時々ぶれた拍子に真実の琴線をつまびいては、緩く拳を握っている気がする。
「君は…私が…!」
「貴方が…僕を、貴方に…」
交わって行く言葉と真実の境界を二人が行き過ぎた時、何もかもが反転する気配がした。
今までが壊れる音と、顔を覗かせる本当の、僕たち。
やがて幕引き、そして…
僕は地図を片手に家路に着いた。
僕の家はバス停から3ブロック程歩いた金物店の二階だった。
しばらくぶりに訪れるそこのドアノブには、うっすら埃が積もり、その上に僕より一回り大きな指の跡が残っていた。
それは比較的最近着いたものの様だが、身に覚えがない。しかしふと、考えを巡らせて全ての意味を理解した。