「その節は本当に、いや、お世話になりました」
これからも、どうか一つ、よろしくお願いします。
流水の音のする、高級料亭の奥座敷。
さる高官お抱えの大将は、俺に向かって平伏した。
気分がいい。
いくらも年上の、貴族の男が、この俺に跪いている。
閻魔大王付秘書官殿。
それが、今の俺の肩書き。
何て心地の良い響きだろう。
俺は、木偶の坊の武人へ、あるべき地位へ就かれるだけのことです、と言って微笑んだ。
奴の顔は、だらしなく上気していた。
以前だったら、考えられないことだ。
貴族達と言葉を交わす。
まして上座に座するなど。
俺の生まれは、深い、質の悪い地獄。
ただ、牛馬の様に働き、疲れて死んでいくだけのために、皆生きていた。
住人達の命は短かった。
ただぎらぎらと、安全弁のない命の炎だけを、目の奥でたぎらせて。
皆一瞬で、燃え尽きて行った。
そんなのは、ご免だった。
生家には女と、使い物にならない身体の男達ばかりで、俺だけがまるで、駆けずり回る様に働かねばならなかった。
13の時、俺は逃げ出した。
追い縋る母の悲涙にも、耳を塞いで。
ただ、当たり前に生きる為に、俺は全てを、捨てた。
その日から、なりふり構わずに、世界を掛け登った。
幸い、俺は醜くもなく、頭も多少はまあ、回る。
しかしほとんど、後天的に身に付けた物だ。
食える時に食って、学べる時に学ぶ。
差し伸べられる手は、全て掴んだ。
それが例え、汚泥に、深紅に、欲望に芯まで染まっていようとも。
立ち居振る舞いは、人よりもそれらしく。
決して研鑽を怠ってはならない。
腐匂を放つ現実の表面だけ、何よりも美しく、誠実に。
足元ではいつも、どろどろにとろけた、踏み台にした冷酷の悪事が、俺を絡め取ろうとしている。
そして、人伝いに俺は、恐らく出来得る限り最高の、地位を手に入れた。
閻魔大王付秘書官。
王の腹心、そして、愛人。
俺は、世界を手に入れた。
「最高だぜ」
今日も、夜道に月が良く映える。
fin.