どうぞこのまま



「どうしてですか?」


香から昇る、白煙がふわりと揺れた。
閻魔はなあにと言うけれど、手元の書籍から目を離さない。
それは書籍だけれど或は鬼籍でもある。

閻魔は今日、自分でこの部屋へ来た。
ここは鬼男の部屋だ。
だから普通、神様なんかが立ち入らない所で、勿論今日のこれは内緒の事だ。
今日だけではない。二人にはもう、内緒の事が沢山あった。
例えば仕事の途中に目配せしている事。
例えばたまに二人で天国や下界へ出掛けている事。
例えば今同じ布団に素肌の肩を並べている事。

だけど閻魔は恋人と言う言葉を決して使わない。
はじめは、ただ聞きそびれているのか、そう言った語句の使用頻度が、単に低いだけだと思っていた。
好き、愛してる、ずっと一緒に居たい。彼は惜しげもなくそう言うけれど。
それはそれ、これはこれなのだと鬼男はある時気が付いた。
自分は閻魔の恋人ではないと、ある時気が付いた。

そうだとしたら。
彼は都合のいい時、自分から逃げ出すかも知れない。
他の誰かと、他の誰かの元へ、どこか他の所へ。
そんな事はどうしても嫌だった。どうぞお行きなさいと、言ってやるつもりなんてなかった。
気が付いてしまった不安は加速する妄想とともに、どんどん大きく深くなる。

折角、沢山の垣根を超えて彼の傍に行けたと思ったのに。
上司と部下?王様と配下?神と鬼?ひどくばかばかしい。
ぐらぐらと滾って粘っこくて、胸の裏に張り付いて、どうしてもこそぐことの出来ない思いが、鬼男の中で熱く大きく畝っている。


「僕は貴方の特別にはなれないんですか?」

「何の話?」

「とぼけないで下さい」


ごめん。そう言って、閻魔は眉をひそめて笑う。やっとこちらを見た。
くらりくらりと、まるで火が燃えている様な気分だった。
閻魔は存外、強い鬼男の視線に焼かれた様に、身体を丸めて白い羽枕に頭を預ける。
閉じた濃紺色の本で顔を半分覆って、その赤い瞳だけが覗いた。


「僕は貴方の恋人でいたい」

「うん」

「そうしたら、もう怒ったり刺したり、しないかも知れません」

「言うね」


そんな事が本当に出来る?と彼は笑った。
そう言われると、それは出来ないかも知れない。
そういう風に思うのは本当に出来ないと思っている訳ではなくて、その言葉に何の効力もないと分かったからだ。
それが受け入れられるのなら、鬼男は決して、その約束を守るだろう。
怒らない、刺さない、大切にする。けれどそれだけでは、どうやら彼の一番にはなれないようだ。


「君は一番だよ」


鬼男の心を読んだかのように閻魔はそう言った。
実際読んだのかも知れない。彼は神様だから、一介の鬼でしかない鬼男の心なんて、興味のあるなしはあれど分かって当然の事なのだ。
鬼男は、彼はずるいと思った。それは自分にはない力で話の先を行く事もそうだし、自分たちの関係もそう。
閻魔はふふと笑った。


「心を読んだと思った?」

「ええ」

「違うよ」


分かるんだよ、好きだから。そして君も俺を好きでいてくれているから。
閻魔の瞳が笑う。赤い瞳だけ、どこかくたびれた様子で笑っている。


「何度も愛して、何度も別れて、全部本気なの。ねぇ、それは定められた事なんだよ」

「貴方の恋愛遍歴なんて知ったこっちゃありません」

「そう?じゃあ君も俺を生きながら死んでいるような苦しみに、落として幸せになろうと言うの?」


鬼男はそこで、はじめてはっとした。
彼は神様で自分は鬼だ。
超えたと思っていた垣根の先に、暗くて大きな河が、なゆたよりも広い宇宙のように広がっていく。
己はなんて常識的で非常識の範囲で閻魔に愛を乞うていたのだと気が付いた。
彼を失う事への恐怖と憎しみ、それがそのまま彼から跳ね返って復讐をはじめた。

たまゆらの時間でもともにある事が一番だと思っていた。けれど、誓わなければ破られない堰がある。何を?愛を!
己が彼に与えられると思っていた幸せは、その実、ただの苦しみだったのかも知れない。
閻魔大王は神様として過ごした長い時間の中で、愛し苦しみ、遂に何者をも苦しめない冷たい形を見つけてしまったのだ。いいやそれは、どんつきでついに形をなさなくなった。

愛を誓えど、彼は必ずひとりぼっちになる。
だからはじめから、彼はそれを形にはしないのだ。

なんて哀れで、悔しいのだろうと思った。

悔しいと言うのは或は、彼がそれに気がつく前、彼を傷付けた何者か達がいたと言う事だ。
閻魔大王に愛された彼の恋人たち。
それは鬼男の最も大切にしたいと思う物を多分、滅茶苦茶に傷付けた張本人なのだけれど、彼らが憎くてそして、とても羨ましかった。
すべてが分かって尚、胸が熱くて仕方がなかった。


「いいの、それだけで」

「何がですか?」

「その、嫉妬心だけで充分だよ」


鬼男の気持ちを岡目の言葉で切り捨てて、閻魔は言う。
だからこのままでいてほしい。
どうかこのまま、傍にいてほしいと。

鬼男は、この人は思ったよりもっと、遠い所にいると理解した。
手を伸ばせば届く距離に、その身体はあるけれど。
彼と自分の間には無量大数に高い垣根と那由他の河がある。

閻魔は先程の本をたてに声だけで語る。
魂の記録の記された、濃紺色の表紙の本。
赤い瞳だけがはっきりと見えて、あとは立ちはだかる衝立のせいでその表情も分からない。
先程まで恋人にしたくて仕方がなかった男が、まるで遠く、極楽から糸を垂らす地蔵菩薩のように霞んで見えた。いいや、見えなかった。


「どうぞ、このまま」


表情のない声で、閻魔の瞳はそう言った。

そう言われればもう、ただの鬼には二の句は継げぬ。


fin.

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