「やあ…今日は良く見えるなあ」
閻魔はそう言って、ふと作業の手を止めた。
青磁の様ななめらかな肌に、青い地球の仄かな影が落ちている。
その光景はある種幻想的な雰囲気さえ放っていて、僕はつい、彼を叱る事さえ忘れてしまうのだ。
彼は、きれいだ。
----恋する惑星
閻魔大王の第二執務室。
通称、大天球。
宇宙空間に浮かぶ小部屋、なんて体で創造されたらしい。
プラネタリウムの様な透明の半円の天井の外は、真っ暗の宇宙の闇に、鮮やかな星々。
巡る盛衰の歴史と、それぞれの持つ大きな時間の音が聞こえて来そうな、壮大なパノラマだ。
どこか厳かに、浮かぶ星達は強かに無限のメビウスに従っている。
そのさまは柳の様にしなやかで、決して樫の様に風雨に逆らったりはしない。
僕から見れば、ちょっと物足りない、かも知れない。
そんな中に、先程閻魔が感嘆の声を漏らした惑星がある。
青い惑星、地球だ。
今日は星の大気が澄んでいる様で、その水と緑と、命の星は、冴え々とした色を称え、漆黒の宇宙の闇に映えてひときわ美しい。
閻魔もこの星が気に入りで、執務机を星の正面に据えている。
この、彼の裁く人々の、そして彼自身の母なる星を。
まるで見守る様に、見守られる様に。
いや、見つめ合う様に。
…勿論、これは全部作り物だ。
目を楽しませる為に作った、アトラクションの宇宙。
否、僕はそう思ってるし、そう言ゔ体゙で存在する場所だ。
だけど閻魔大王の事だから、もしかしたらって事もあるんじゃないかと思う。
宇宙なんて、ましてやここから見える地球、現世なんて行った事もないから、嘘かホントかなんて僕には分からない。
だけど現世とこの冥界がこうやってガラス一枚先に繋がって見えるみたいに、虚と実、生と死さえもとても不確実に近く、ともしたら交錯する所に閻魔は存在しているから。
だから、もしかしたら、と思う。
彼なら、宇宙くらい切り取って、自分だけの箱庭を創ってしまうんじゃないか、って。
そう思う。
閻魔は幽玄の存在だ。
この空間に、良く似合う。
蜃気楼の様でいて、でも触れればひやりとした肌が確かにそこに有る。
底知れなくて…ふとした瞬間に――…普段の彼は全くその対極にいるけれど――どこか朧げな所が、美しい男だ。
僕は心惹かれている。
そんな彼の多面性の魅力に、プリズムの放つ輝きの様な美しさに。
そんな彼に、そう、心惹かれてやまないのだ。
なんとなく、ふと思った時、ふと気が付いた時、たまにそれを彼に言ってみる事もある。
だけど大体、何とも言えない空気になった後、何事もなかったみたいにただ、二人してまた仕事を片付け始めるのが常だ。
そう言う時、閻魔は少し赤くなって、少しぼんやりしている。
僕達は結構、堂々巡りしている様だ。
輪の外へ一歩、踏み出す切っ掛けを掴みそこねて、数千年…って所。
そう言うのも嫌いじゃない。
だけどたまに、宇宙で小さな塵が衝突する様なアクシデントが欲しい。
小さな衝撃が伝播して、時には星々を滅ぼす様な。
ともすれば、新しい宇宙を生む、それが。
なんて、考えたり、考えなかったり…また、そこから数千年。
「ぼさっとしてないで、さっさと片付けて下さいよ」
コレ、と言って彼の机上に山積みの書類をわざとらしく指差す。
彼は肩を竦めながら明後日の方向を向いて、はいはいと口を尖らせた。
彼が目を落とす書類にも、彼の白い手元にも、まるで僕を惑わす様に、青い星の影が彩る。
やはり、きれいだ。
その青い光よりも、彼の見とれる命の星の煌めきその物よりも。
有と無、静と動、嘘と本当をシャトル・ランみたいに行き来する彼の方が、ずっと魅惑的な輝きを放っている。
賑やかで居て儚い、彼はとても、魅力的だ。
彼が仕事に戻って、音の無い真空は、また居住まいを正した。
そうして、まるで時間が止まった様な、抜けるような静寂を、閻魔は纏っている。
息を呑んだその一瞬が、永遠に続いているみたいに。
恋に落ちた瞬間に似ているその、一瞬が。
…正確には、それは僕の願望かも知れない。
僕の心の中で、その瞬間が永遠を求めているのだ。
永遠なんて、実際、有るのか無いのか分からない物だけれど。
だって永遠を知る人はきっと、゙最後の一人゙だから。
まして、心ある者が夢見る口当たりのまろやかな永遠なんて、僕にさえ夢想の産物に思える。
それは矛盾で、希望だ。
それが、もし、有ったとして。
そこは文字通り、夢の中にしか有り得ないのか。
もしくは、そこにそもそも現実と通ずる部分なんてないのか。
ひょっとして全てが、驚く程のリアルなのか。
形而上の彼の膝元にかしづく僕には、正直分からない。
万人に共通の答えなんてきっと、始めから存在し得ないのだろう。
だけど僕は、そのままでも怖くはない。
何故なら、彼と言う存在が、曖昧そのものと言ゔ確実゙を僕は知っているからだ。
それだけで、数千光年の塵の中でも、迷わずにいられる。
数千年の時を、永遠を信じて生きて行ける。
曖昧、と言う確実の美しさに、僕ば誠意゙を預けているから。
彼となら、永遠を生きて行ける。
゙最後の二人゙なら。
そう、思う。
閻魔は子憎たらしい位真面目な顔で、資料と向き合っている。
上下左右もない空間で、僕は彼の指示に従って、あちらこちらの書棚を歩き回っては、彼の元に戻る。
まるで偶像の王子様の元で、しあわせを知ったつばめの様だ。
まるで、衛星の様だ。
ただ見守るだけの様で、時々その進路は羽毛の触れ合う様に、また、あるいは劇的に交差する。
彼の周りをぐるぐる、ぐるぐる、時々ついたり、離れたり。
頭上の、サファイア色の惑星もまた、彼と共に絶対なる生と死の輪舞を踊っている。
゙おんなじ゙を繰り返す事、数千年、そしてこれから、またきっと数千年。
命の巡りの隣で、彼と僕と生と死と恋と。
だって僕は彼を美しいと思ってしまったから。
彼の引力に惹き寄せられてしまったから。
地球のオーシャンブルーが色褪せるまで、引き摺られる様に永遠を連れ合って行くのだ。
…なんて、大袈裟に、何時までも、中途半端を続けているけれど。
要は簡単な事。
「閻魔大王」
「ん、なに?」
「貴方の美しさに、地球も青ざめていますね」
彼の方も見ずに、言ってやった。
がたり、と椅子の足がジャンプする音がして、判子の音も、ペンの走る音も、止まった。
ただ青い星だけが、ゆっくりと今日を回し続けているのを、僕は見ていた。
余りにも長い沈黙に、ちらりと横目で見てやれば、閻魔はしばらく真っ白になっていた後、急速に真っ赤になってしまった。
もう惑星の色も分かりやしない。
「…やめてよね」
ややあって、かぼそい呟きが聞こえたので、はい、とだけ、心を込めずに言ってやった。
閻魔は溜息を一つ吐いて、再び手を動かし始めた。
彼も僕も、もうそれ以上は何も言わなかった。
地球も僕も相変わらず、きっと彼の掌の上で回り続ける、明日も。
恥じらいの瞳の赤に染められるまで、青い期待を静かに真空の底に沈めて。
ぐるぐる、ぐるぐる、いつでもそうやって。
いや、やっぱり、いつかは……。
fin.