自宅のインターホンが鳴る。誰かが大声で我が家の苗字を呼ぶ声が聞こえる。

平日にも関わらず父は何故か家に居て、受話器を外して壁からだらりと垂れ下げた。いつの間にか電話の親機の線も抜かれていた。

母は寝室から出て来ない。彼女が居ないだけで室内はひどく荒れて、もう着替えもない位洗濯物がそこら中に散らばっている。そう言えばここ最近、夕飯だと呼ぶその声すら聞いてはいない。

テレビの電源は切ったまま、誰も何も言わず、時は止まっているようでもはや過ぎ去ってしまったようでもある。鬼男がいないだけで家族は全く、変わってしまった。

鬼男は誰もが最も望まない方法で奪われ、いなくなってしまった。
無口で別段明るくもない普通の少年だったけれど、彼がいないだけで灯が消えたように、ただただ暗く静かだった。

閻魔は掛けていたキッチンの椅子から立ち上がる。父はどこへ行くとも言わなかったし、こちらを見なかった。閻魔も何も言わなかった。

それまで明るく、良く家族や友人を笑わせて、時には元気づける事も上手だった彼だが、今は他人にも自分にも無力だった。

閻魔は廊下を抜けて、ぎしぎしと音を立てる階段をゆっくり上がる。
上がっても下がってももう何も得る事は出来ないと思えば思う程、その足取りは重かった。

短い廊下を進んだ先の、祖母の部屋のふすまをそっと開ける。鬼男が姿を消してから、また会えると信じて居た間も、彼がこの部屋へ入る事は無かった。鬼男がいなければ彼がこの部屋へ入る理由は無かったのだ。

かつてはただ、学校から帰った弟がこの部屋で着替えをするから、それを見計らって彼にかまって貰いに行くのが常で、閻魔の楽しみでもあった。だから閻魔はこの部屋が好きであった。

そういえばこの部屋の電気は金曜の晩、鬼男が消したままの筈だ。彼の痕跡を消すようで、閻魔は電気を着ける事が出来なかった。
彼のいなくなった部屋、這い上がる宵闇を窓から差すオレンジ色の光に感じながら、一人で鏡の前に立った。

そこには誰もいなかった。
いいや正確には、くたびれたスウェットを来た自分の姿だけはきちんとそこに在ったけれど。
でも足りなかった。それは完全ではなかった。

閻魔はこの部屋が、この鏡の前に立つ事が好きだった。
けれど今はそれがつまらなく、不安で寂しくて、たまらない気持ちになった。

彼と、たった一人の弟と肩を並べて、彼の存在を実感出来る事以外、この部屋に、そして鏡に魅力などなかったのだ。


「何て言おうとしたの?」


自分だけが映る、沈んだ色の鏡に向かい語りかける。それは自然、独り言になった。
閻魔が言っているのは最後に彼とこの鏡の前へ並んだ日、鬼男が何か物言いたげにしていた、あの時の事だった。

聞いておけば良かったと閻魔は思った。だって、明日も明後日も、今日も、いつだって聞けると思っていたんだから仕方がない。けれどそれはこれから先にもずっと、出来ぬ事になった。

閻魔は畳の上にしゃがみ込みながら考える。彼が何を言おうとしたのか。
本当はそんな事はどうでも良かった。でも彼を失ったと言う事実以外に、悔しさや絶望の対象を少しでも逸らさなければ、閻魔はもうどうにもたまらなかった。

そして考える。弟は何を言おうとしたのか。そして自分は何故、弟の死を思う事の次に、彼の言葉について考えようと思ったのか、閻魔はふと考えた。

そうして気がつく、それは最も気が付いてはならない事だった。

閻魔は暗闇に閉ざされ、既に己の姿さえも映さない鏡へ見開いた目を向けた。
当然そこには何も見えはしない。それどころか、真っ黒の夜に沈むたかだか6疊の畳敷きの部屋さえ、その角も臨めぬ程に暗く暗く、闇に呑み込まれていた。

闇が無限に広がる、と閻魔は思った。
そして呟く。


「好きだったんだね」


その身体に触れたいと思ったのも、クレープ屋なんて、本当はどうでも良い所へ誘ったのも、鏡に彼を映して見ていたかったのも。

好きだった。弟を、鬼男と言う名の少年を。
家族と言うぼんやりとした括りから、彼はその死と言う鮮烈を以って、閻魔の中で一人の男として生まれ出てしまった。
それは星の誕生に似ていた。

ならば早く、ビッグクランチという物が起こればいいと閻魔は思った。
膨張を続ける宇宙はいつか、限界を迎えて収縮をはじめる。それがビッグクランチだ。そうして誕生と、終焉ではなく再生を繰り返すのだと何処かで聞いた。

繰り返すと言うなら、はて、またいづれこの苦しみの世界へも突き落とされるのだろうか。
けれど彼の居た時間を思えば、それがまた繰り返すだけで閻魔にとってはこの上ない幸せであった。
いや、どうせ、繰り返すそれさえまた繰り返すのだから。

閻魔の考えはもはや言葉で説明出来る領域を超えて、五方六方へ飛び散っていた。
彼は見てはならぬ惑星の誕生を見てしまった。彼は何処か幸せな気分であった。

そうして特異点などない、焼けた畳に白い額を擦りつけた。
黒い髪を薄茶色の畳に散らばせて、ついこの間までここに居た愛した男の匂いがしはしないか、彼は久しぶりに深く、呼吸をする。かつて間違いなく、ここに居た彼を求めた。

そう、彼には分かっていた。けれど分からぬふりをした。

だから彼は黙って、もう誰もいない灰暗い鏡の前でゆっくりと目を閉じた。


fin.

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