とても寒い夜だった。
山椒のふりかけの賞味期限は、今年の7月の半ば。
その頃にはきっと、それはとても暑い夜だった、なんて言葉で僕は語り始めるのだろう。
一しきり棚を物色した後、台所の電気を落とす。
光量の変化に、虹彩が緩むのが分かる。そうして徐々に、惨めなくらい小さな明かりに縋って世界の輪郭を脳に映し始めるのだろう。
イビル・マイスイートハート・インオアエデン
僕が捉えたのは、半開きのドアの隙間から漏れるオレンジ色のベッドスタンドの明かりだった。
そこは彼の部屋。いや、そもそもこの家(ここはマンションの一室なのだが)自体が彼の持ち物だから、彼の部屋の中の彼専用の領域、という方が正しい表現だろうか。
言い方はともかく、彼は今日ここへ来てすぐに、疲れたと言って真っ直ぐその部屋へと向かい、着替えも中途半端なまま、睡魔に足をとられたのである。
それが四時間前、昨日の午後11時頃だった。
それから僕は、一人でテレビを見ながら、カップラーメンをすすった。
今日は彼が来るというから、土産か、もしくは彼の手料理にでもありつけると思っていたから。これは大きな誤算だった訳だが。
もう面白い番組もなく、手元の雑誌も見あきてしまった。だがどうも、眠る、という考えにはどこか賛同しかねる部分があった。
そうして台所に立ち・・・先ほどのシーンに繋がる訳である。
眠れない。この原因ははただ単に近頃のだらけた生活か、それとも他の何かか・・・
俺は引き寄せられるみたいにオレンジの光を求めて、彼の寝室へと向かう。
まるで、夜の虫のようだ。
あの光は誘蛾灯。僕はその光に焦がされて命を落とす。
ガンッという音がして、訳の分からない妄想から現実へと引き戻される。
足に走る鈍い痛み。先程まで僕が腐っていたソファーの前に置かれた、小さなガラス製のテーブルだった。
その上には、新聞やテレビのリモコン、ダイレクトメールなんかが雑多に広がり、僕のだらしなさを露骨に表わしていて少し眉をひそめる。
しかしその中に、何かきらりと光るものがあった。
手に取り、それが何だったか思い出す。
「これ・・・あの時の」
銀のバングル。以前僕が彼に雑誌を見せながら強請ったものだった。
しばらく大事にしている風に持ち歩いた後、今は紙くずの下に埋もれていた訳だ。
結構高価なものだった気がするのだけど・・・。
僕の悪い癖だ。与えられるばかりの環境にいる時、すぐに価値観が緩む。
元々、割と潔癖な方だった。学生の頃は勉強も、部活も頑張ったし、態度も良く褒められた。
いけなかったのは、最初に年上の女と付き合ったことだった。高校生の時だった。
僕の家は母子家庭でそんなに金はなかった。
でも、母がどれだけ努力して俺を育ててくれているか知っているから、文句なんて言わなかったし、言いたくもなかった。
何か欲しい、なんてよっぽどのことがない限り言わなかったし。馬鹿みたいにお年玉なんて貯めたりしていた。
そんな、僕の精一杯の小金なんて嘲笑う様に、女は金を流した。
僕は、欲しいものはほとんど、女に強請って手に入れた。
ガキの欲しがるもんなんて、今にしてみれば飴玉程度の大したことないもんばっかりだったから、女も笑顔でそれに応じた。
母は忙しく、ほとんど家にいなかったので、僕の生活の変化には気づかなかった様だった。
貴方ほんとに格好いいわね。
女は良く言った。最初はどうしていいか分からなかったが、その内扱いも分かって来た。
しかし間もなく、暇さえあれば付きまとう女が面倒になった。思えばただのOL風情だ、飴玉の山にも、すぐに金は尽きた。
その頃には、女が変わった。
そして、季節も廻らぬ内に、どんどん、手を出しては傷つけて、捨てて、また手に入れた。
それが僕のライフワークの様になっていた。
それでもまともに大学まで行ったが、真面目な生活はどこか空虚で、面倒だった。
そんな中で、出会ったのが彼、閻魔、とかいうふざけた名前の上司だった。
面倒くさいと思いながらも勤め始めた企業の、面白い位の上の上、僕には手の届かない様なそういう血統に生まれた男だった。
彼の一族は代々、有名企業の重役を務め、この国の政治に影響を与える位の権力はあるという噂だった。
聞けば、古い話だが旧華族の家柄なのだと言う。
まぁ、そんなことに興味はないが。身分の高さと比例するが如く彼は、それ相応の経済力も持ち合わせていた。
そして僕に気がある様子、格好の鴨だ。
僕はひと月、真面目な社員を装った。まぁ元々そういう性質なのだから、全く苦はないと言えばそうだ。
すれ違うたび、僕の方を盗み見る彼が可笑しかったが、僕は知らんぷりで恭しく礼をしたりした。
見えない面で笑いを噛み殺しながら。
奴から手を出して来た時、僕は当時の女を捨てた。
泣いて追いすがられても、まぁ、もうどうでもいいか、という位だった。後悔はなかった。
嫌いな女ではなかったが、それより彼に興味があった。
愛情とかいう綺麗なものじゃなくて、まず金、そしてとんでもない金持ちの愛人という未知のポジションへの馬鹿な憧れ。
そんな僕の卑小な欲はすぐに満たされた。
あれが欲しい、と言えば、次の日には包みが届く。
これが嫌だと言えば、もう二度と、それを目にすることはない。
尽きない金、献身、それは、僕の物欲さえも塗りつぶして、その内真白にしてしまった。
だけれど僕は、まだ彼の元にいる。
何故?それは何か、何処か、僕の中にまだ満たされていない部分があるからではないのか・・・。
不自由のない生活に飼い慣らされて、とろけた頭がふと、そんなアイデアを生み出す。
「大王」
それっぽ過ぎるあだ名を呼べば、眠りの中の彼が微かに身じろいだ。
この男の中の何を、僕はまだ手に入れていないのだろう。
「大王、ねぇ」
「鬼男くん・・・?何、どうした?」
赤い瞳を半分露出させて、男の意識が浮上する。
心底眠たそうに、目をこすって、ベッドサイドの膝立ちの僕を見上げる。
彼の長い脚が布団の上を滑った。彼は僕の背の高さを褒めるが、彼も以外といいスタイルをしている。
若干なまっちょろ過ぎる所はあるが・・・。
何も言わず、不満げな表情を称える僕に、彼がふと笑って呟いた。
「何だい、・・・寂しくなった?」
寂しい?僕が。
「分かりません・・・ねぇ、もう目が覚めたでしょう?」
そう言って、彼の腰に手を回す。
そして不意にキスをする。彼の言葉を塞ぐために。
ふふ、と僕に騙されて幸せそうに笑う彼が哀れで、醜く見えたが、どこかで僕は安心している気がした。
「大王」
「いいよ、鬼男くん。俺もう明日の仕事のことは知らないや」
一層深い口づけを落とす。
気づいてしまった不安をまた、深い深い水底に沈める様に。
唇を交わらせたまま、元々脱ぎかけだったシャツのボタンを外す。
彼が僕のベルトに手を掛ける。
カチャカチャと不器用な音が続いた後、獲物でも生け捕ったみたいに彼はそれを高々と掲げて、後ろへと投げ捨た。
僕はそれを上目遣いで見止めて、彼の胸にわざとらしく舌を這わせる。
演技か、本心か、彼はいつも悪戯に色っぽい声でそれに応えるのだった。
赤く主張する部分を齧れば、彼は僕の金髪に指を刺し入れて、上向かせる。
潤んだ瞳はキスを求める合図だ。
僕は右手を彼のズボンに突っ込んで、左手で頭を引き寄せた。
「鬼男くん」
自らの下腹部で不格好にうずくまる男の名を、彼は行為の最中、良く口にする。
それは、僕を呼ぶためだったり、時には意味もなくそうしたりるす様だ。
僕は存外、それが嫌いではない。
遠慮なく求める彼は、嫌いではないらしい。行為も、そして、僕のことも。
分かってはいるが、それでも何故か少し、僕はそれが嬉しい。
「あ・・・あ、それ駄目。おかしくなる」
「いいってことでしょう・・・ハハ」
そう言って彼の中の一部を指でこすれば、もっとと言う腰と自然とそう言うのだろう言葉が裏腹だ。
彼自身に手を掛けながら、中を探ればさも良さそうに目を閉じる。一本一本が華奢な睫毛が美しい男だ。
赤く染まった頬と、体、不意に触れれば一瞬、ビクっとした後、苦笑い気味に僕を見る。
「次は俺の番ね」
そう言って僕の前に膝まづく様が、征服欲を掻き立てる。
どちらが主人か、一瞬分からなくなるのは頭が回っていないせいもある。
ん、とかむ、とか時々、無意識だろうか声を上げる。
時々裏に触れる尖った舌が気持ち良くてぞくっとする。
身分の貴い男。
それが今、動物の様に、僕の元に這う。
汚い男妾の、足元に。
最初はそれが、醜い喜びを誘ったものだった。
時には無遠慮に頭を押さえたりして、彼は少し不機嫌になったが、続きをする内に忘れて、次の朝には許していた。いつも。
だが今、ゆるりと彼の髪を撫でる僕の掌は、その温かさを手放せない様な、何か不可解な感情とともにそこに在る。
今はいい、彼の好きに、遣りたいように愛してくれればそれでいい、恐らく僕はそう思っている。
また、二度、ゆっくりと彼の頭を撫でれば、喉を鳴らして嬉しそうに笑う。
振動が心地よくて、熱が段々と駆け上る。
最後は単調なリズムに集中して、彼の誘導に任せた。
「鬼男くん」
「なんです?」
口元を拭いながら、手をついてこちらを見る。その姿が色っぽい。
彼は僕の胸に手を付いて、反対の手で僕の頭をなでた。
「鬼男くん、君は良い子だね」
「何を唐突に・・・」
「いいじゃない。何時言おうと、俺の価値観だ。君は良い子だよ」
「・・・訳が分かりません」
「ふふ・・・」
そう、彼は瞬間笑って、あっという間に僕は彼の腕の中へ。
温かな彼の胸、腕、頬。その体温に、何かが満たされて行く気がした。
それはさっき、冷たい水の底に隠した僕の中の寂しさなのか。それとも、彼自身に求めた、何かだったのか。
分からないが、何故か涙が出そうだと思った。
「鬼男くん。ずっと俺の側にいてね、君を愛している」
「・・・大王」
「念書も書くから、その内ね」
「それじゃあ・・・大王、」
あんたは、僕の側にずっと居てくれるんですか。
そう言うと、彼はまた、優しく、居るよ、ずっと、ずっとね。
と、笑った。
満たされたのは、僕の寂しさ、そして、与えられたのは彼の優しさ。
求めない愛を押しつける、これまでの恋人とは違う、彼は、特別だ。
僕は、彼から奪うものがまだあるから、彼の元に居るわけではなかった。
彼から与えられるもの、それが逆に僕を捉えて逃がさないのだ。
それは、物ではなく金ではなく、目に見えないもの、地位でもなく、優しさに似ている。
今夜、僕の中で唯一、特別だ、と知った彼を、僕は・・・・きっと二度と手放せない。
彼の白い特別な優しさは、まるで麻薬の様だと、温かい涙でふやけた頭は、そう考えた。
fin.
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閻魔は精神的に大人。
鬼男も大人だけど、昔殺した甘ったれた寂しさが、閻魔の優しさで蘇るよ う な・・・
アッー!真面目な話恥ずかしいな!