鈍色の雨が上がった。
湿気を含んだ土から生暖かい蒸気が立つ。深い傷につんとしみた。

ボルドー色になった血液がぼたりと滴る。酸素が足りていないのだ。

上昇する熱い空気の中、丹頂のように首を上げて呼吸の逃げ場を探す。
神様になってまで、こうも人間くさい所を残されるなんて、これもまた何かの罰なのかも知れない。

しかし死がない。

いくら罰を承け、傷つき、血を流しても、涙を枯らしても。
命の輝きの到達点である肉体の死だけが俺には、ない。

赤い流星が轟音とともに頭上を飛んだ。
あれは地獄へ落とされた魂だ。あの山の向こうに落ちるのだろう。

星の連れてきた風の忘れ形見がそっと髪を撫でる。

さて、俺は帰らなければならない。

重たい脚を無理やり引き摺って、星の来た方へ歪む視界の焦点を合わせた。












スロウ・ダウン












「またひどくやられましたね」

「うん、いたわってくれ」


へへと可愛く笑ったつもりだったけれど、酒焼けしたような声色になった。

妙に頼りないその声でもうしばらくは黙ろう、と俺は心に決める。残念ながら元々、可愛くはないしね。

鬼男くんはつとめて無表情に俺の背中を洗った。
擦れたり、裂けたり泥の染み込んだ傷が震える。挫滅した身体を褐色の掌が優しく行き交う。

湯船の縁に腕を預けた瞬間、傷口と擦れて上げた悲鳴は空気が喉を吹き抜けただけになった。

鬼男くんの眉が寄る。相変わらず無言。
そんなに怖い顔をしないで欲しいけれど、生憎茶化して誤魔化すだけの余力がない。

今にも白目を向きそうな位疲れている。
本当にそうしたら、彼は笑ってくれるだろうか?
何かを感じ取ったのか茶色い腕が俺の身体を支えた。

仕方ないのだ。あれだけ痛めつけられたら誰だってこうなってしまう。
俺は今しがた地獄で罰を受けたばかりなのだ。それは声も涙も枯れて然り。

あれは俺の裁きへの罰なのだという。
罰へ罰、また罰。世界には罰だけが降る。

罪とは一体なんだったのだろう。
俺の罪ではなく、罪そのものの意味を俺は時々忘れてしまいそうになる。


「痛っ・・・た!」

「はっぱですね」


何でもない顔で、彼が摘んでいたのは松葉だった。
俺の背中からえぐりだしたものだ。

泥にまみれた緑色の針葉とくすんだ赤い血液。微かだが生の匂いがする。


「一体なにをどうしたらこうなるんですか」

「鬼男くんお母さんみたい」


5時のチャイムで帰って来た子どもをひん剥いて風呂に入れる母親のようだ。
カラスの子だって人の子だって温かい胸に帰る事が許されている。

今度は力の抜けた笑いが漏れた。
黒い毛先から温い湯が玉になって水面へと落ちる。はじけた水滴は広がって王冠の形を作った。


「なにをどうしたら・・・」


貴方みたいになるんですか。

彼の深い赤色の瞳が俺を映す。

俺みたいというのは。
それは罰を承けることか、罪を負うことか。あるいは王であることか、神であることか、人であったことか。

生き続けることか。

恐らく全てに対する問いがその一言には含まれている。彼の純真を感じる。

何もかもがどうにもならない事だけれど。誰もが持ちえるとても素朴で熱い思いを感じる。


「帰る所があるからだよ」

「・・・どういう事ですか?」

「帰る所があるから、俺はこうしていられるんじゃないかな」


彼ははっと、目を見開いた後どこか悔しそうに視線を逸らす。
そんな事が聞きたかったんじゃない。聞こえるか聞こえないか位の声でそう呟く。

俺は少し元気になってしまった。やっぱりまだ枯れてはいないようだ、色々と。

先程は今度こそ、地獄で、罰で、死ぬんじゃないかと思っていたけれど。
いやいつも思っているけれど、こうして結局当たり前の生に俺は帰って来る事が出来る。

減速して、限りなく0に近付いた俺の時間の中で。
流れていく彼の生が鮮やかで、悲しくて、必ずここへ帰って来ようと思うのだ。


「いつか」

「うん?」

「いつか僕が居なくなったら、貴方はどうなるんですか?」


心からの言葉は心へ届くようだ。
彼は随分恥ずかしい問いを、恥じらう素振りもなく俺へとぶつける。

だけれど、そんな事を聞かないで欲しい。
生きても死んでもいない俺をこんな気持ちにさせるのはこの子くらいだ。
"いつか"、"もし"を想像させ恐怖させるのはこの子くらいだ。


「そうしたら君の所へ行くよ」


ばっかばかしい!
彼は耐え切れなくなったのかそう言って、湯を跳ね上げて俺に浴びせる。

見開かれた瞳が微かに揺れている。耳が赤い気がするのは湯気のせいではないだろう。

思わずにやつくと、容赦なく湯船に沈められた。
爪が飛んでこなかっただけいくらかましだ。湯の中で気泡をたてて笑ってしまう。身体だけでなく心が温かい。

俺はもう痛みを忘れかけていた。
肉体の死を失っても、心が生き続ける事が出来るのはきっとこの子がいるからだ。

いつだって進み続ける正のベクトルの上で待つ彼がいるから、四次元以上の世界で俺は、拡散せずに生き続ける事が出来るのだ。


fin.
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再生する系の閻魔。

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