「エックス」、という答えがたまらなく怖いのだ。
僕はいつだってそれから逃げている。
不知火の迎光として
「ベル教授、ほらまた粉だらけですよ」
「ああ…」
死にたいと言う彼を引っ張って、向かう先はいつもの通り浴室。
僕には分からない数学の計算を、ベル教授は下手したら日もすがら、誰か止める人が居ない限り延々と続けていることがある。
椅子に腰掛け、足をデスクの上に投げ出す。
書類の上に土足の泥が散ることも、この人は性格上余り気にしないみたいだ。
そして小さな黒板を腹の上辺りに乗せて、書いては消し、書いてはまた消す。
僕は良く、そういう彼の姿をじっと見つめている。
ただ何もせずに、コーヒーなんかを飲みながら見ている。
彼が取り組んでいることは僕の口出し出来ることではない。
だから、その時だけは、良い助手を演じなければならない機会はない。
だから僕は、僕の好きなこの人を思う存分見つめることが出来るのだ。
「お湯、暑くないですか?」
「ああ、…ああ、大丈夫だよ」
チョーク塗れになった白衣を僕に預けて、彼は熱めのシャワーを浴びる。
彼の生白い肌が、仄めく赤色に染まるのが僕は好きなのだ。だから、給湯温度はいつも45度前後にしてある。
決して彼には告げないけれど、愛してしまった、とか。
僕は好きなのだ、アレクサンダー・ベル教授が。
僕は、自分の見た目はそんなに悪くないと思っている。
それは庭で洗濯物を干す僕に、今手を振った見知らぬ女学生達の朱の射した頬が何よりの証人ではないかと思う。
しかし、彼、ベル教授は、少々美しい程度の僕なんかでは及びもつかない位違った次元に生きる人間だ。
見た目なんて馬鹿みたいな要素、関係無い。
彼は、神に愛された人間なのだ。
出来が違うと言うのか、人としての質の違いに愕然とさせられることが良くある。
人から与えられた問いではなく、未来のための全く未知の計算を解き、片や人魚姫の童話にも涙する。
彼と対等に会話出来るだけの実力を持った人間が何人居るか知れない中で、時には唐突に死にたい等と言い出す。
多分彼とはそもそも概念が違うのだと、僕の足りない頭はそう結論付けた。
僕はいつも考えるのだが、僕も神に愛されたかったと思う。
そうすれば、彼と同じ基盤で生きられたのに。
愛を告げること位は叶ったのにと思う。
神に愛されながら、愛し合い楽園から堕とされるとして彼とならそれ以上の幸福なんて無い。
それは一種の妄執として常に僕の頭に纏わり付いて離れないのだった。
この戀は叶わない。
どんなに想っても、結局僕の幻想はこの一言に尽きてしまう。
「…ワトソンくん」
「ベル教授」
彼は僕の好きな色をして、何とも申し訳なさそうな顔でキッチンと庭とを繋ぐ裏口につっ立って居る。
「いつもすまないね…助手の君に、洗濯までさせてしまって」
「何言ってるんです、僕はベル教授に研究を頑張って貰うために側に居るんですから。こんなこと位気にしないで欲しいです」
水色の空に小さな雲が流れ、調った緑の芝にエメラルド色の影を落とす。
はためく白衣の横で微笑む僕は、自分の金色の睫毛を日が透かすのが分かった。
屋根の影に立つ彼は、自信が無さそうに焦げ茶色の瞳を伏せる。
「…その、もし良ければ教授とは呼ばないでくれないか」
「え、それはどういう事です?」
「突然呼び捨てだとか難しいのは分かるし、周りにも良く思われないだろう。だからせめてさん、と付ける程度で呼んでくれれば…」
嬉しい、と加える。彼の瞳が微かに潤んでいる気がした。
青い空、白い雲、エメラルドグリーンの芝。女の子の朱い頬、白い白衣。
僕の金髪、彼のブルネット。
一陣の風邪が吹く。
僕の青い瞳、彼の焦げ茶色の…
瞳が僕に何かを求める筈が無い。
「ええ…良いですよ」
「え…」
神の愛し子、アレクサンダー・ベルが只の人の子に何かを望む筈が無い。
「分かりましたと言っているんですよ、…ベルさん」
「ワトソンくん…?」
一歩一歩踏み締める様に近付いて、彼の目の前でぴたりと止まれば不安げな瞳で僕を見上げる。
頭一つ小さい黒髪の学者は今、少し怯えた顔をしている。
「…なんです?」
浅はかな女が現を抜かすだろう極上の笑顔で答えれば、彼は安心した様な失望した様な顔で何でもないと言った。
神の子が人を愛してはいけない。彼の神聖は侵されるべきではない。
彼が地に下った時、既にそれは僕の愛した者では無い。
僕は僕の預かり知らぬ神聖不可侵の何かを日々妄想のなかで愛し、愛されたいと願っている。
その実、いつか迎え入れられる日が来ることを何より厭っているのだ。
愛を受ければ壊れる、僕の恋はだから…
決して叶わない。
fin.