誰かを好きになると
グラスを差し出す右手首を掴み、ぐいっと引き寄せた。必然、身をのりだす格好になった相手の、瞠られた琥珀色の瞳が、間接照明の灯りを含んで甘い鼈甲色に輝いている。
普段ならPDAが巻いてあるその場所は、いまは無防備な柔らかさを晒している。バーナビーは驚く顔を見つめたまま手首に吸いつき、下唇の内側に感じる静脈を辿るように舌を這わせてみた。
びくりと抗う反応はあったが、腕を振り払うことをしないのは、グラスを気にしてのことなのか。普段のお得意の、軽口を叩いてかわす大人ぶった余裕は、どうやらどこかへいってしまったらしい。
真っ直ぐに伸びる腱の窪みに沿って舌を行きつ戻りつしていると、指先が震えて少しずつグラスが滑っていくのが横目に見える。虎徹の集中が逸らされるのが不快で、バーナビーは手首を掴んでいた手を甲を包むように滑らせてから、グラスを取りあげテーブルに置いた。
(さてこれで、言い訳になるものはなくなった)
手首の内側は皮膚が薄く、常に血管が透けて見える。ここはどんな屈強な男でも鍛えられない場所だ。ヒーローとして日常的に肉体酷使し続けてきた虎徹も例外ではなく、むしろ、東洋系特有の薄さと絹の滑らかさは、儚ささえ感じさせる。
ヒーロー活動中に見せる荒々しさや、無神経に聞こえがちな言動は、鏑木・T・虎徹のごく表面的な部分でしかない。時に陳腐に聞こえるヒーロー持論は、言い換えれば志しというもので、立ち振舞いの清廉さに滲み出ている気がした。
優しい人間なら世の中に溢れている。けれど自分にとってはそうではない。
(僕はあなたに優しくされたいです。…愛されたい)
ありふれた優しさをいらないと思うのは傲慢だろう。不遜だと詰られるだろう。
優しくされたいのは好きだからだ。愛されたいのは愛しているからだ。これは誰彼もに振る舞える感情ではない。
こんな気持ちになったのは生まれて初めてで、正直どうしたらいいのかバーナビーには判らなかった。言葉や視線、行動のひとつひとつに明滅する感情があり、全身がセンサーにでもなったようだった。
だから、虎徹がこちらを気にしていることも気がつけた。果たしてそれが、自分と同じものかどうかは怪しいが、関心があるうちに踏み込む男気は、バーナビーは持っているつもりだ。
唾液まみれの手首を挟んで見つめあったまま、すでに短くない時間が過ぎている。
掴んだままの手は、もう支える程度にしか力を入れていない。虎徹の手は自由だ。何かをいいたそうにしている唇は僅かに開いたままだが、言葉がかけられる気配はない。
舌は腕を上り、肘の柔らかい窪みに辿りつく。きつく吸い上げればくっきりと浮かんだ鬱血に、虎徹の視線がたじろぐようにそらされて、その瞬間、バーナビーは一気に唇へと距離を詰めた。
重ねた唇は強く引き結ばれていたが、上下の合わせを何度も舌先で往復しているうちに綻んだ。迷う舌を絡めとって味わいながら見つめた顔は、困惑したまま。まるでどう反応するのがベターなのかと、シュミレーションを繰り返しているような表情だった。
(ここまでさせておいて今更)
誤魔化すための時間は十分に与えた。腕一本分の距離を、丁寧に丁寧に近づいたのだ。
「わからないなんて言わせない」
難しい表情をする虎徹をしっかりと抱きしめる。服越しでさえあたたかさが伝わってきて、胸がぎゅうと切なくなった。
背中に感じた手のひらの熱さが、抱き締め返されたことを教えてくれる。虎徹の体から過剰な緊張感が抜けて、深く息を吸い込んだのがわかった。
ひとりきりで恋をしていた。
そしていま、恋に落ちた。ふたりで。
唇を啄みながら覗いた琥珀の瞳は、もう驚いていない。いつもの眼差しがそこにある。そのことがとても、とても嬉しかった。
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