act.8
突然キスされた、あの一ノ瀬さんに。
そう理解が追いつく前に触れていた唇が離れていく。
「な、」
なんで?と理由を聞こうとするのに驚きすぎて言葉が出なくて、口をぽかんと開けるしかなかった。
だって私と一ノ瀬さんは出会ったばかりで、当の一ノ瀬さんは私にやたら突っかかってきて。
憧れてくれていた、というのは嬉しかったけど。てっきり嫌われてるか、もしくは今日の件で幻滅されたと思ったのに。
私の表情が余程可笑しかったのか、一ノ瀬さんは吹き出すように笑った。
「面白い顔ですね」
「だ、誰のせいよ…!」
あまり見たことの無い自然な笑顔に、不覚にもきゅんとしてしまう。カフェで励まされた時も思ったけど、一ノ瀬さん、クールで冷たい印象だったけど普通にちゃんと笑えるんじゃない。こんなこと言ったらまた怒られそうだから、その言葉は胸に閉まっておこう。
まずい、恥ずかしくてまともに顔が見れない。
そりゃ、一ノ瀬さんは…キスシーンとかもあるし慣れてるだろうけどさ…!
「免疫がないの!悪かったわね!」
「おや、そうですか。つい先程まで身体を売ろうとしていた人なのでてっきり慣れているかと」
「ねぇ、どうして私にそんなに厳しいの?」
憧れって言ってくれたのに。そう、子どもが拗ねるような言い方をしてしまう。
一ノ瀬さんは私の何が気に入らないのかな。
「いけませんね、あなたにはついきつく当たってしまう」
「ど、どうして?」
「憧れの存在であるからこそ、完璧であって欲しいと願ってしまうのでしょうか」
「うーん、よく分かんない」
「もどかしかったんです、ずっと…実力があるのに埋もれているあなたが。だから何とか、輝いて欲しいと思ってしまって」
一ノ瀬さんは、イメージよりもずっと不器用な人なのかもしれない。そんな風に思った。想いをたくさんの言葉を使って伝えようとしてくれる姿が、不思議と可愛く見えてきてしまって。
「結局、私のことは嫌いなの?」
そう、思っていないともう十分分かっているのに。
ちょっとだけ意地悪をしてみたくなった。
そんな私の思惑を知ってか知らずか、一ノ瀬さんは私の顎をくいっと手で持ち上げる。互いの吐息がかかる距離。思わず逸らしたくなるようなまっすぐな視線に、気恥ずかしさを覚える。
「ずっと思っていました。いつの日かあなたと対等な関係になりたい、と。それがこの世界に入ってからずっと、私の目標だったんです」
「うん…もう十分過ぎるくらい、叶ってると思うけど…」
「えぇ…何故私がそう思っていたか分かりますか?」
「憧れだったから?」
「あなたを手に入れたかったからですよ」
唇を親指でそっとなぞられた。
一ノ瀬さんの綺麗な瞳に射抜かれ、心臓がバクバクと音を立てる。私が返事をするより先に、二回目のキスが落ちた。
「その、私…」
「今は返事は良いです」
「けど」
「好きにさせてみせますよ、必ず」
自信たっぷりに笑った一ノ瀬さんに、目を奪われる。本当に、不思議な人だ。厳しくて冷静な性格の人だと思ったら、突然こんなに優しく笑う。
こんなに胸がドキドキして、ちょっと悔しい。
「みょうじさんにもう一つお話が…この監督を知ってますか?」
急な話題の転換に驚きつつも、一ノ瀬さんは一枚の名刺をテーブルに置いた。
映画監督──と肩書きされたその名前は、
「黒田監督…?知ってるも何も!超有名な一流監督じゃない」
業界だけじゃなく世間にも知れ渡っている人物のものだった。
「一ノ瀬さん撮ってもらったことあるの?良いなぁ、羨ましい」
「えぇ、一度だけですが」
監督のことはよくは知らないけど、女優や俳優なら誰もが憧れる存在だ。けど厳しくて有名で、その厳しさゆえ心が折れる演者も少なくないらしい。
私には縁のない話だけど…と思いながら足をプラプラと揺らす。緊張していたのが嘘みたいに、私…いつの間にかリラックスしちゃってる。一ノ瀬さんに、心を許してしまっているから、かもしれない。
「今度オリジナル脚本で新作映画を作るようです」
「へぇー」
「オーディション、一緒に受けてみませんか?」
その言葉に、足をピタリと止めて一ノ瀬さんの顔を見た。
「オーディション、やるの?」
「えぇ、業界の一部にしか知られていない情報ですが」
「また大きい事務所ばっかり、そういう情報が入るんだから」
「捻くれないで下さい」
「捻くれてないもん」
頬を膨らませた私に、一ノ瀬さんは一枚の紙を渡した。受け取って目を通してみると、オーディションの日時と場所が記されている。どうやら、この話自体は本当のようだ。
「実力至上主義で有名な監督です。事務所の力だとか忖度を心から嫌い、役は全て自分の目で見て決めているそうです」
「聞いたことある…目立たないけど実力のある俳優さんをよく使うって」
「えぇ…みょうじさん、あなたの女優としての実力を、このオーディションで試してみませんか」
この監督なら、必ずあなたを評価してくれる。
一ノ瀬さんの声が、静かに響いた。
紙を持つ指に力が入る。やれるなら…やってみたい。
今まで、私はどこか諦めていた。
この業界では事務所の力が全て、私がどんなに頑張っても認められることはないって。
だけどもし、本当にチャンスがあるのなら──
「私に、出来るかな…?」
「大丈夫ですよ。一緒に頑張りましょう」
「うん、分かった。…ねぇ、一ノ瀬さん」
次なる目標が出来て、心が晴れやかになった気がした。こんな私でも好き、と言ってくれた一ノ瀬さんのおかげだと…思う。
「さっきの告白の返事だけど…もし一ノ瀬さんがオーディションに受かったら、考えてあげても良いよ」
「……」
「だってそしたら、一ノ瀬さんの夢が叶うでしょう?」
そのご褒美に、だなんて。可愛くない言い方だし、ずるい答え方だと思う。
「おやおや、あなたは受かる前提ですか」
「…うん、だって頑張るもの」
「分かりました、約束ですよ?私も、頑張らない訳にはいかないですね」
人のことを言えない程自信たっぷりに笑った一ノ瀬さんを見て、心臓がドキドキと音を立て始める。
私も、本当に素直じゃない。
もうとっくに、私だって一ノ瀬さんのことが気になって仕方がないというのに。
「(キスも本当は、嫌じゃなかったなんて)」
悔しいから絶対に言ってあげないけど…まだ、ね。
好きにさせてみせます、なんて言われたけれど。一ノ瀬さんに落ちてしまうのはきっと時間の問題だと察した私は、少し赤い顔を隠すように、口元にマグカップを運んだ。
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