「ねぇ、一ノ瀬くん知ってる?」
大して仲良くはない、話したことのある記憶すらないクラスメイトの女子生徒から突然声をかけられたのは、とある日の放課後の事だった。
授業が終わり少し残って課題をし、今教室を出ようとしていた所だ。周りには誰もいない。
今日はこの後、なまえのダンスの練習に付き合う約束をしていた。腕時計をちらりと見ると、約束の時間まであと10分。何の用事かと思いながら、話を早めに切り上げようと彼女の方を向いた。
「何でしょうか」
無意識であったが、いつもより低い声が出てしまったと思う。だが彼女は何も臆することなく、ただ私の顔を見つめていた。
「Aクラスのみょうじさん」
「な、」
「知ってるよ。付き合ってるんでしょ?」
彼女の口から予想外の名前が紡がれる。それにまた眉間に皺を寄せた。
なまえと付き合っているのは事実だが、その交際は公にしていない。恋愛禁止の規則がある以上、仕方の無い事だった。
何故ただのクラスメイトであるはずの彼女がそれを知っているのか……一気に警戒心が強まる。それに気付いたのか目の前の彼女は「平気だって、誰にも言わないよ」なんて言って薄く笑った。その笑顔が少し気味が悪いとさえ思った。
「話はそれだけですか?では失礼します」
「違うよ、一ノ瀬くんに忠告しておきたいだけ
」
「忠告…?」
興味のないただのクラスメイトだ。それになまえの事を悪く言われるとしたらたまらない。無視をして去ろうとした所で、彼女の意味深な言葉に思わず立ち止まってしまった。
「みょうじさんって、元々はHAYATOの追っかけしてたらしいよ」
「なまえが……?」
「そう、デビュー当時からの大ファンなんだって」
キィ、と音を立ててレッスン室のドアを開いた。スピーカーから大きめの音で流れてくるのは、クラス合同で行われるダンステストの課題曲だった。
曲に合わせて身体を動かす、ジャージを着た小さな後ろ姿。いつもは下ろしてある綺麗な長い髪も、今は一つに束ねられている。
私が入ってきた事に、彼女…なまえはまだ気付いていないようだった。
『 アイドルを目指した理由も、HAYATOと同じステージに立ちたかったから、らしいよ 』
女子生徒の言葉が、頭から離れない。
なまえの口からHAYATOの──昔の自分の名前を聞いたことなど、一度たりともなかった。
「あ、トキヤ!遅かったね」
こちらに気が付いたなまえが、こちらを向いて私に微笑みかけた。
その笑顔でさえ、
『 一ノ瀬くんと付き合っているのも、ただHAYATOが好きだからなんじゃない?』
今は不安な材料にしかならない。
「トキヤ……?」
何も言わない私に疑問を抱いたのか、なまえが近付いて下から見上げてくる。
真っ直ぐな、大きな瞳。
『だからみょうじさんに本気にならない方が良いと思うよ 』
そんなのただの戯言だ。そんなはずはない、なまえに限ってそんな事は……そう分かっているのに。
「大丈夫…?ちょっと顔色悪いよ?」
もしその瞳に映っているのが、自分ではなく、
HAYATOという偶像だとしたら───
「ねえトキ──」
「…どしたのなまえちゃん。そんな不安な顔しないでにゃ?」
「え?トキヤ……?」
「ボクはトキヤじゃなくてHAYATOだよ」
なまえの目に動揺の色が宿る。突然の出来事に、状況が飲み込めていないようだ。
当たり前だ、一体今、何をしているのか…自分でもよく理解出来ない。
「ねぇなまえちゃん」
それなのに心の中の黒い感情が理性を邪魔する。
ギリ、と音を立てるくらい強く握ったなまえの手首を、
「やだっ、トキヤ…やめ、」
強く壁に押し付けた。
「ずっとボクの事が好きだったって、ほんとー?」
「っ、や…その、」
「へぇ、やっぱりそうなんだぁ…嬉しいにゃあ」
自分が嫌っている過去の自分を、
彼女は愛していただけなのだと、それをただ否定したかった。否定して欲しかった。それなのに、なまえは何も言わないでただ怯えた顔で唇を震わせている。
「それなら、付き合っちゃう?」
「いやっ…」
「じゃあ手始めに、チューからしようか」
馬鹿な事をしていると自分でも分かっているのに、止められない。掴んだ手首に更に力を入れて、強引に唇を奪おうとしたその時、
「うぇ、ふっ…やっ、」
なまえが目から大粒の涙を流した。
「と、きっ…」
「なまえちゃん?」
「やぁ……ときや、どこっ……」
「っ、」
「トキヤ、ときやぁ……」
声にならないような声で、子どものように泣くなまえ。そんななまえの姿に、そっと掴んだ手首を離した。
途端に、その場にへたり込んだなまえは泣き止むことなく、ひたすらに肩を震わせている。
「トキヤ…トキヤっ、どこにいるのっ……」
何度も何度も呼ばれる、自分の名前。
それはHAYATOなんかじゃなくて、いつも呼んで欲しいと願う、自分の名前だった。
「……ここです」
震える肩を抱えるように、そっと抱きしめた。ビクンと肩を揺らした後、なまえは真っ赤な目で私を見上げた。
「ときや……?」
「すみません、その……まさかあなたがこんなに泣くとは思わずに」
「も、ひどいよぉ……怖かったん、だからっ、ひっく……」
泣かせてしまった罪悪感と、なまえの温もりに包まれた安心感が押し寄せる。どうしてこんな事を、と尋ねるなまえに、正直に先程の女子生徒に言われた話を零した。
「何、それっ…」
「放っておけば良かったのですが…私も自信が無かったんです。あなたが本当に好きなのは、一ノ瀬トキヤじゃなくて、HAYATOなのではないかと」
情けない声だったと思う。それでもなまえはそれを指摘するわけでもなく、力強く抱きしめ返してくれた。
「HAYATOに憧れてたのは、ほんと…。学園に入学したきっかけをくれたのも、確かにHAYATOだったよ?でもね、」
「……」
「私が好きなのは、トキヤなの…それは、トキヤがHAYATOだった事とは、なんにも関係ないんだよっ…?」
「そう、ですか……すみません。なまえの事を信じていなかった訳では、なくて…ただその女子生徒の言葉が気になって、」
「そんなのっ……その子がトキヤの事が好きで、私から引き離したかっただけに決まってるじゃんかぁ……!」
痛いくらいに伝わる彼女の想い。
今までの不安が、すっと魔法のように消えていく。なまえの言葉のひとつひとつが心に響いて、どうしようもなく愛しくなった。
「トキヤ、大好き。だからもう、あんな事しないでっ…」
「もう二度としません。なまえ、私も愛しています」
お互いの身体を抱きしめ合う。ただひたすらに、強く。
もし出会えたきっかけが彼、HAYATOの姿だったとしても。今彼女が愛しているのは自分なのだと、今なら自信を持ってそう言える。
そして抱きしめたその温もりを、もう二度と離したくないと心から思った。