【遠いあなた】
「……ふぅ」
パソコンのキーボードを叩く手を一度止めて、コンビニで買ったカフェオレを口に含んだ。
久々の、休日の自主出勤。最小限の電気だけを点けたオフィスで、小さく身体を伸ばした。今日出勤しているのは私だけ。暗くて静かなオフィスはいつもよりも集中力を高めてくれる気がする。
最近は仕事に打ち込んでいた。休日出かける機会もうんと減った。
家にずっといると…真斗のことばかり考えてしまって、勝手に辛い思いをする。それが嫌で気を紛らわせるために、ただひたすら仕事をした。
少しだけの休憩を終え、作業を再開しようと背筋を伸ばすと、ある物が無意識に目に付いた。デスクに置いたスマホの下に、敷いた一枚のチケット。蘭丸がくれた、ライブのチケットだ。
「(真斗…)」
真斗は元気にしてるのかな。体調崩してないかな。そんなことばかりまた考えてしまう自分に嫌気が差す。
『俺はもう、お前のことは何とも思っていない』
分かっている。今更私が行く資格がないなんてことは。
それに実際、行くのは辛い。でも本当は少しだけ姿は見たい。テレビや雑誌越しじゃなくて、ちゃんとその姿を…あと一回だけでも目に焼き付けたい。
どうしよう、どうしようと。一人悶々としながら頭を抱えた。わざわざ会社にまで来たというのに、相反する気持ちに振り回され仕事にも身が入らなくなってきた。
「17時か……」
壁掛け時計を眺めてぽつりと呟いた。ライブの開場時間に、ちょうど差し掛かったところ。開演時間は18時だ。
会場は都内だからそう遠くはない…今から行けば間に合わなくはない。
けど、
「……帰ろ」
────
会社を出た私は電車に揺られながら、窓から外の景色を眺めた。視線を車内に移すと、ライブグッズと思われる物に身を包み、楽しそうに笑う女の子達がいた。きっと、これから彼らのライブに向かうのだろう。
これから大好きな人に会いに行く彼女達の笑顔が輝いて眩しい。とっても可愛い。それに引き換え、私は───。
窓に映り込んだ自分の浮かない顔を見て、また気持ちが沈んだ。それと同時に、このままではいけないような気がしていた。
『ちゃんと、踏ん切りつけろ』
蘭丸に言われた言葉が頭の中で繰り返される。いつの間にか最寄り駅は通り過ぎ……数駅先の、都内のライブ会場に到着していた。
ライブが行われるアリーナは、駅からすぐ近くだった。賑やかな駅周りを通り抜け会場に近づくと、聞き馴染みのある音楽が聞こえる。
少しだけ、少しだけなら……許されるよね。
そう自分に言い聞かせている内に、自然と足はそこへと向かっていた。
中に入れた時には、すでに開演まで5分を切っていた。良かった、ギリギリだけど一応間に合ったみたい。
重い扉をそっと開けて、中を覗く。ライブが始まる前だと言うのに、すでに辺り一面にはペンライトが灯っていて…キラキラしていてすごく綺麗。初めて見るその光景に、感動すらしてしまう。
私は出入口に一番近い、最後方の席に腰掛けた。数列前の席には見覚えのある後ろ姿。
ふと、こちらを振り向いた蘭丸が私に気が付いた。
蘭丸に向かって小さく手を振ると、少しだけ驚いた顔をしたけど、すぐに片手を上げてくれた。
程なくしてブザーが鳴り響き、会場が暗闇に包まれた。驚くくらい大きな歓声に圧倒されていると、音楽が流れて大型ビジョンに映像が映し出される。
そして───
「す、すごい……!」
特攻音と共に現われたのはST☆RISHの面々だった。今日一番の歓声に包まれる中、彼らはマイクを片手に歌い出した。
もちろん、その中には真斗の姿もあって。
「(元気そう…良かった)」
久々に見たその姿は、いつものよう。…ううん、いつもに増して輝きを放っていた。やっぱり、アイドルはステージに上がる瞬間が一番眩しくて活き活きしている。
飾り付けられた大きなステージで歌う彼。
それをただ、遠くから見つめる私。
それがなんだか、とても虚しい。
そうだよ。元々、こんなにも違う世界に居た人じゃない。ちょっと付き合ったからって、私…何を勘違いしてたんだろう。
私と真斗が、釣り合う訳ない。
それに身分だって違いすぎる。財閥の嫡男である彼と、ごくごく普通の一般庶民の私。
それに加えて親の借金や治療費まで背負う女なんて……普通、嫌に決まっている。
『出会うべきではなかったんだ』
忘れたくて仕方なかった真斗の言葉が頭に響いた。
本当に、
「そうだったのかな……」
あんなに近くにいたのに、今はこんなにも遠い。私は真斗のことがこんなに大好きなのに、今だって、想っているのに……それが真斗に届くことは無いんだ。
ライブも終盤。最後のMCの所で私は立ち上がり、前方の席の通路側に座る蘭丸の肩を叩いた。
「ありがとう。私、もう行くね」
「…良いのか?」
「うん、大丈夫」
まだ賑やかな会場の声に耳を傾けながら私は扉に手をかけた。
ちょうど真斗が話していて、その姿をじっと目に焼き付ける。
「(これが、最後だ)」
そう、これが最後。真斗とはきっともう会うことはない。
大丈夫。
ライブを見て逆に吹っ切れた。私とは違う世界の人だって、改めてよく分かったから。
「マサはさー!今日のライブ、誰に一番に観てもらいたいって思う?」
「……そうだな。俺は──」
当然目が合うはずもない真斗の顔を最後に見つめて、目を細めた。そしてゆっくりと後ろを向く。張り裂けそうな胸の痛みに耐えて、真斗の声を背中に受けながら──私はそっと、会場を後にした。