【残酷な痛み】


ロケバスでの移動中、窓枠に肘を掛けて流れていく景色を車窓から眺めた。後ろからは一十木や来栖の楽しげな声が聞こえる。いつも通りの、日常だ。

そうだ。あのような事があっても日常はやって来る。まるで何事も無かったかのように、俺はこれからもこうして仕事をこなしながら…毎日を過ごしていくのだろう。

七瀬と出会う前に、戻ったように。



「あ、そうそう聖川」

普段は俺の隣になど座りたがらない神宮寺が、今日は珍しく進んで横に座った。

特段会話もない中、先に口を開いた神宮寺が鞄の中から何かを取り出す。手渡されたそれはまだ封が開けられていない新品のCD…神宮寺のソロアルバムだった。


「次七瀬ちゃんに会う時、渡しておいてくれないかな?」
「……」
「新曲が出たら聴きたいって言われていてね、オレよりお前の方が頻繁に会うだろ──聖川?何かあった?」

嫌な予感はしていたが案の定だ。一向に受け取らない俺の様子が気になったのか、神宮寺の顔付きが変わる。その視線を躱したくて、顔を背けて再び外を眺めた。


「すまないが自分で渡してもらえないだろうか」
「どうして?」
「櫻井さんとは──もう別れた」


俺の言葉に目を丸くする神宮寺が窓のガラス越しに見える。受け取ってもらえなかったCDが神宮寺の膝の上で小さく音を立てた。

実際に言葉にすると現実を突きつけられる。自分で発した言葉なのに、想像以上に心臓に重くのしかかった。


「ちょっと待って、どういうこと?」
「お前には関係ないだろう」
「そうかもしれないけど、おかしいだろ!あんなに惚れ込んでたじゃないか」


早く納得して諦めてくれれば良いのに、奴は更に詰め寄る。
信号が赤に変わった瞬間、声量を落とした神宮寺が言葉を続けた。


「…家の絡みか?」
「……」
「…ったく!お前は本当に昔から──」
「…のむ、から」
「え?」


「頼むから、放っておいてくれないか」



絞り出した俺の声を聞いて、神宮寺はそれ以上は何も言わなかった。察してくれた事に少しだけ感謝し、気を紛らわすため仮眠でも取ろうと試みる。


何度も悩んだ。本当の事を話した方が楽だと何度も思った。だがそれが本当に七瀬を守ることになるのか?父上から言われた言葉が何度も頭を過ぎり、結局何が正解なのか答えを出すことが出来なかった。

それならばいっその事、嫌われてしまえば良い。それが──最終的に俺が下した結論だった。


……そうだ。俺のことなど、嫌いになれば良い。七瀬には幾らでも他に相応しい男はいるはずだ。


どこかの誰かと普通にまた恋をして、結婚して家庭を持って。幸せになってくれれば…それで良い。
俺のことなど忘れて、普通に笑って毎日を生きて欲しい。


それが、彼女にとって一番良いのだ。











───


「それではゲネプロ終了です!お疲れ様でしたー!」


それからはただひたすらに仕事に打ち込んだ。幸い、大きなライブの直前だった事もあり時間は瞬く間に過ぎてゆく。


楽しそうに会話をしながらロッカールームへと戻るメンバーの最後尾に付き、首に掛けたマフラータオルで汗を拭った。横には神宮寺が並ぶ。


「良い感じに仕上がってきたね」
「そうだな……ん?」
「あ、ブッキー」


二人で歩いていると前方から良く知った顔が見えた。紙袋を片手に笑顔で大きく手を振る姿……寿先輩だ。

しかし、その後ろに見えた影にドクンと心臓が嫌な音を立てた。なるだけ今は、お会いしたくない人だった。



「やっほー!差し入れ持ってきたよん」
「ありがとう。その紙袋は唐揚げ弁当かな?……あ、ランちゃんも来てくれたんだ」
「…………」

無言でただ俺をじっと見つめる黒崎さんと目が合い、背中に冷たい汗が伝った。

黒崎さんと七瀬が旧知の仲という事はよく知っている。だが…別れの事実をご存知かどうかは予想がつかない。


「あの……」

とにかく七瀬の事は関係ないにしろ、挨拶をしないのは無礼だ。俺が言葉を発するより先に、黒崎さんが足早に俺に近付く。



そして、次の瞬間───




「かはっ……!」
「ランちゃん!?」
「ちょ、ランラン!」


腹部に黒崎さんの拳が力強く音を立てて入り、激痛が走る。よろけた身体を立て直す隙もなく、胸倉を掴まれ壁に叩きつけられた。背中の痛みに顔をしかめると、グッと近付く黒崎さんの顔。間近で見るその表情は怒りを抑えきれておらず、鋭い眼光で俺を突き刺した。



「顔は殴らないでおいてやる」
「………」
「心当たりが無いとは言わせねぇぜ」


今にもまた殴りかかりそうな黒崎さんから、視線を逸らす。出来るだけ冷静にならねばと言い聞かせ、ゆっくりと口を開いた。


「…黒崎さんには、関係のない話です」
「……あぁ、そうだろうよ。けどな」


胸倉を掴む手に力が入る。何度殴られても構わない、やり返すつもりもない。
だが黒崎さんは拳を振るう事無く──悲痛な表情で俺の身体を力強く揺さぶった。


「アイツが、七瀬がどんな顔してたと思う…?あ?」
「………」
「お前に想像出来んのかよ!!真斗!!」


黒崎さんの叫びが静かなフロアに響き渡った。何事かと思ったのか、様子を見に戻ってきたメンバーが視界の端に映る。



「ランラン、どんな理由があっても手を上げるのは良くないよ」


俺と黒崎さんの間に寿先輩が入った。黒崎さんの手を掴んでゆっくりと下ろし、俺の胸元も解放される。

黒崎さんは何も言わず、ただ俺を睨みつけていた。その視線に応えることも出来ず…逸らすことしか俺には出来なかった。


「ごめん、今日は帰るね。レンレン、ひじりんをお願い出来る?」
「……分かった」
「じゃ、行こっかランラン!あ、みんなお疲れ〜!差し入れだよーん!」

遠くから皆が楽しそうに談笑している声が聞こえた。黒崎さんから放たれた言葉が耳から離れない俺は──自分の情けなさのあまり顔を上げることも出来ず、ただその場に立ち尽くした。



どのくらい時間が経ったのだろう。
ようやくゆっくりと歩き出した頃には、周りには神宮寺以外の人間は居なくなっていた。


「聖川」
「……」
「オレから言うのも変だけど…きっとランちゃんは七瀬ちゃんの事が──」
「知っている」




「…気付いてたの?」
「薄々はな…だが今、確証に変わった」

黒崎さんの七瀬に対する特別な感情には、何となく勘づいていた。無論、それは俺が七瀬と付き合い始めた以降だったが…。神宮寺は「そう」とだけ言い、俺を追い越して先へと向かった。恐らく、一人にしておこうと言う奴なりの配慮だったのだろう。



「…痛いな」


殴られた腹部より、自然と抑えたのは胸元だった。誰もいないフロアに静かに、俺の声だけが響いた。


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