【初めての夜】


夜の寒さに身体を震わせる。触れた唇の温かさが離れると、急に冷えた風を痛感するから不思議だ。


「…七瀬、どうしたんだ?」
「うっ、ううん!何でもないの」

キスは初めてじゃないのに、やたらドキドキしてしまうのは…この間の雨の日の出来事が原因かもしれない。触れられる度、あの日のことを思い出しては胸が恥ずかしさでいっぱいになって苦しくなって…赤くなった顔を見られないように咄嗟に真斗から顔を逸らした。真斗は特に気にする様子もなく、ベンチ座る私の横に腰掛けた。



「すっかり遅くなってしまったな。何か食べに行くか?」
「うん。…あ、けどお店どこか開いてるかな?居酒屋とかにしよっか」
「…ふむ、そうだな」

真斗は顎に手を当ててしばらく何かを考えてから顔を上げた。何か、食べたい物でもあったのかな。目が合ってにこりと微笑まれて、何だろうと思って首を傾げた。


「俺が家で何か作ろうか」
「えっ」
「今日の礼だ」

それはとびきり嬉しいお誘いだった。真斗が料理上手なのは前からよく知っている。一度、私が熱を出した時にお粥を作ってくれたことがあったから。今も忘れられないその味からするに腕前は確かだから、実はずっと食べたいなと思っていたのだ。


「…良いの?」
「あぁ、出来合いのものになってしまうが…それでも良いならば」
「う、うん!それは、全然、大丈夫だけど…」


問題はそこではないの。真斗が料理を振舞ってくれるということは当然、真斗の家にお邪魔することになる。

付き合い始めてからも、彼の自宅へ伺うことは何となく避けていた。万が一誰かに見られたり週刊誌に撮られたりしたら、という不安が一番の理由だけど、私なんかが家に行くなんて図々しいんじゃないかという遠慮もあって。


「遠慮なら無用だぞ」
「……う」

真斗が私の心を読んだかのように、そう言ってくれた。確かに…付き合って結構時間も経つし、そんなことも今更かな。ちゃんと付き合ってるし、可笑しくはないよね?それにやっぱり、もっと彼と一緒に、ゆっくりと過ごしたい。


「じゃあ…お邪魔、しようかな…」







───


「入ってくれ」
「あ、ありがとう」


ドアが開いて、そろそろと玄関に足を踏み入れた。つ、ついに来てしまった、真斗の自宅。案内されたマンションの大きさにまず驚いて、更に部屋が上階である事に驚いて…真斗が言うには事務所が丸ごと借りているマンションだから、セキリュリティもマスコミ対策も万全で心配がないとの話だった。こんな立派なマンションに暮らしてるのに、私の狭いアパートに今まで呼んでいたかと思うと、申し訳なくなるくらいだ。


スリッパを履いて部屋に上がらせてもらうと、突然お邪魔したにもかかわらず、中はきっちり綺麗に整頓されている。あまりウロウロするのも変かと思い、リビングに置いてあるソファの端にそっと座った。その間に真斗は冷蔵庫の中を確認しながら何やら食材を取り出している。


「ごめんね、何か手伝うよ」
「大丈夫だ。ゆっくりくつろいでいてくれ」

私が慌ててキッチンまで駆け寄る間に、真斗はすでに手を洗って食事の準備を始めていて。


「…と言っても、自分の家でもないのに落ち着かないか。では野菜を洗ってくれるか?」
「うん、ありがとう」
「?何故俺が礼を言われるのだ?」

私を気遣ってくれてありがとう、の意味だった。実際、彼氏の部屋に招かれて気持ちもそわそわして落ち着かない。何か、手を動かしている方が楽だ。真斗は、こういう時に言葉にしなくてもちゃんと察してくれる。ちゃんと私から言わなきゃいけないのだろうし、彼のその優しさに甘えてる自覚はあるのだけど。


「(…幸せ)」


ほとんどの作業は真斗がしてくれて私は本当に簡単な手伝いしかしていないけど、大好きな人とキッチンに並んで料理をするのは心が温かくなる時間だった。もし…もし、一緒に暮らしたらこんな感じなのかなって、調子良いことを想像しちゃったりして。


真斗が作ってくれた料理をテーブルに並べて二人で向かい合って座って。夜更けとともに、穏やかにゆっくりと時間は過ぎていった──。










────


水が流れる音と、カチャカチャと食器が接触する音が重なる。美味しい手料理をご馳走になってしまった私は、せめて後片付けはしようとお皿を洗っている最中だ。


全ての食器を洗い終わり、水道のレバーを下ろしたと同時に、いつの間にか私の真後ろにいた真斗が立っていたことに気付く。

振り返るより先に、流し台の淵に手を添えられ…後ろからまるで抱き締めるかのように閉じ込められた。




「…七瀬」


ぽたぽたと水が垂れる音と、真斗の声が、静かな部屋に響いた。


「明日は仕事は休みか?」








──『明日は仕事は休みか?』


なんてことないその問い。だけど今日はドキドキして胸が張り裂けそうになった。

もちろん、家に行くとなった時点で…覚悟していなかったといえば嘘になる。
もしかしたら、ってやっぱり思ってしまったから。



「休み…だよ」
「そうか。…終電は?」
「急げばまだ乗れる、けど」



「泊まっていかないか」


その熱っぽい声に逆らうことなんて、今日の私には出来なかったんだ。




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