【秘めた迷い】


「寒くなってきたね」

カーペットに座っていた俺の隣に七瀬が移動し、二人で横並びになった。
目の前のローテーブルに紅茶が注がれたマグカップが置かれる。カップからは湯気が漂う、心地好い香りだ。


「紅茶にジャムを入れると美味しいんだよ」
「はは、相変わらず甘党だな」
「えへへ…ちなみに紅茶はST☆RISHの四ノ宮さんがブログでオススメしていたものです」


ここは七瀬の自宅だ。以前、デートの途中で七瀬が体調を崩し部屋の中まで送ったことがあったが、それ以来二度目となる。

発端は七瀬が「プレゼントで欲しいものはない?」と尋ねてきたことだった。悩んだ末、「七瀬の手料理を食べてみたい」と答えると家に招き、手作りの料理を振舞ってくれた。

人に作ることは多いが、誰かに作ってもらう経験は意外と少なかった俺にとって何にも替え難い、幸福な時間だった。今は食後にと、七瀬が紅茶を淹れてくれたところだ。

テーブルの上には紅茶の入ったマグカップと、ジャムの瓶が並ぶ。手に取り一口含むと、確かにほのかに甘くて美味い。七瀬が隣に居るのならば尚更だ。


「二人きりだな」

マグカップを一度テーブルに置いて、七瀬に少し身体を寄せ、髪を撫でた。耳元に光る花のピアスはつい先日俺が贈ったもの。会うたびに健気に身に付けてくれるところが、何とも七瀬らしいと思った。


「…外だと何となく落ち着かないもんね」
「あぁ、今なら誰かに見られる心配もない」
「んっ…」

「それに邪魔をされることもない」と付け足して、唇を重ねた。ほんのりと甘い味がする、今飲んだ紅茶とジャムのせいだろう。テーブルの前のテレビの音だけが、静かな部屋に響く。点いている番組が神宮寺と寿先輩が出演するドラマなのが少しだけ気に入らないが、まぁ今はどうでも良い。

音を立てて唇を離すと、七瀬が緊張したように唇をきゅっと結んだ。


「な、んか」
「ん?」
「付き合い始めてから、真斗…結構ぐいぐい来るよね…」
「そうか?自覚は無いな」

好きならば触れたくなるのは当然のことだと思う、そして一度のキスでは足りなくなるのも。


「止めた方が良いか?」
「違う、そうじゃないの」
「あぁ…分かっている」

今度はうなじに手を当て、先程よりも長く唇を合わせた。息継ぎのため一旦離してもう一度…七瀬も抵抗することなく、徐々に力が抜けていくのが分かる。


ぐっと体重をかけ、七瀬に覆い被さろうとしたその時──俺の身体がテーブルと接触し小さく揺れた。その拍子に置いていたジャムが音を立てて倒れる。



「……」
「……」
「すまない、今片付けを…」
「だ、大丈夫!私がやるから、座ってて?」


一瞬だけ微妙な空気が流れるが、七瀬がすぐに立ち上がりキッチンまで拭くものを取りに行く。戻ってきた七瀬は手際良く片付け、沈黙を破るようにジャムの瓶の蓋を閉めながら、ぽつりと呟いた。


「お母さんが好きだったの、紅茶にジャム入れるの。多分、私の甘党はお母さん譲り」
「そうなのか」
「お父さんもそれを知ってて、出張のたびにご当地のジャムを買ってきたりして──懐かしいなぁ」

しばらく話を続けていた七瀬だが、突如言葉を止めた。何事かと思えば眉を下げて俺の顔を窺う七瀬と目が合う。


「真斗の、その…ご両親は…?」
「……」
「ご、ごめん。真斗、あまり自分の家族の話したがらないでしょう?妹さんの名前はよく聞くけど…だから気になっちゃって」


しばしの沈黙の後、七瀬が申し訳なさそうに「ごめんね!忘れて」と俺を気遣った。首を横に振り、謝る必要が無いことを伝える。



「家族…らしい思い出はあまり無いかもしれん」


七瀬はきっと、優しく温かな家庭で大切に育てられてきたのだろう。彼女を見ていればよく分かる。厳しく律せられ、将来を一身に背負わされた俺とは、きっと違う。


「俺は…跡取りとして随分厳しく育てられてきたからな」


乾いた笑いが漏れる。
七瀬と自分がこんなにも違うことを改めて実感させられ、少しだけ羨ましくもあり…胸が痛んだ。


「俺は聖川家の長男として生まれた時から、もうすでに人生が決められていた」
「そんなっ…ことないよ…!」
「良いんだ。それでもこの家に生まれて不幸だと思ったことはない」


じっと俺の目を見て話に耳を傾ける七瀬。その目で見つめられると、これまで誰にも言えなかった内なる思いが、自然と口から漏れていく。


「しかし…普通の人生を送りたいと。そう願ったことは何度もあった」


思い出すは幼き頃の苦い思い出。
自分の知らぬ所で全てが決められ、そのレールを歩くだけの人生を、俺は勝手に約束された。


「普通の学校に通い、普通に就職して…自由に結婚して家庭を持てたら、どんなに幸せかと……そんな未来に、何度も憧れた」


遠くを見つめて、決して手に入らない人生を思い浮かべた。いつの間にかテレビが消えている。七瀬が消したのだろう。


七瀬が苦しそうな顔で俺の指先を掴んだ。何故か俺より泣きそうになっている七瀬を見て我に返り、「大丈夫だ」と握られた指に力を入れた。


「真斗…」
「今はもう、父上も仕事のことを認めて下さっているんだ。だからと言って聖川財閥の跡取りという立場が無くなる訳ではない。だが芸能の仕事を続けていく許しはもらっているし、応援もして下さっている」
「そうなんだ。良かった…」
「二つほど、条件は提示されているがな」

苦笑いしてそう話すと、七瀬は小さく首を傾げた。いかん、少し喋り過ぎたかもしれない。
動揺を隠すよう、マグカップを取って口に付けた。



「でも、そっか…うん」

隣では両手でマグカップを包みながら、七瀬が呟く。何かに、納得したような口ぶりだ。


「どうした?」
「初めて真斗の歌を聞いた時にね、私…純粋にすごいなぁって思ったんだ。声が力強くて、迷いがなくて、まっすぐで」
「そんな事はない、俺は──」


(今もまだ、迷ってばかりだ)


好きな仕事をしながら、家を守ることを出来る。父上が認めて下さってから、これ以上何も望むものはないと思っていた。

それなのに、


「そうやって真斗は色々なことを乗り越えてきたから…だから、あんなに素敵な歌が歌えるんだね」
「七瀬…」
「すごいなぁ、真斗は」


それ以上に欲しいと思うもの、離したくないと縋りたくなるものに、出会ってしまった。



「お仕事を続ける為の…言われた条件って何だったの?」


七瀬に気付かれぬように、自分の膝の上で拳を握った。


「一つはいずれは当主として家を継ぐこと。芸能の仕事と家業どちらも手を抜かず、最後まで両立をすること、だな」
「そっか…大変だね」
「だが父上もまだお元気だからな。何年先になるかは分からないが…相当の覚悟を持ってやらなけらばと思っている」
「うん。もう一つは?」
「もう一つは…」


じっとまっすぐに俺を見つめる七瀬の目は、一切の汚れもない純粋な瞳だった。それを見て、思わず俺は口を噤んだ。



「…まだ、言わないでおこう」


どうか、今はまだ……お前と、


「もう!何それ」


もう少しだけ、このままで──。




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