【思わぬ事態】
俺の横で「天ぷら楽しみ」と言いながら笑う櫻井さんの横顔をそっと盗み見る。なるべく歩くペースを合わせようと歩幅を気にしながら歩いていく。歩く速度、速くないだろうか。
櫻井さんと二人で外出する機会は自然と増えていった。交代で行きたい場所を考え、それぞれが誘って。前回は「聖川くんが行ったことない場所が良いと思って」と言い、おでんの屋台に連れて行ってもらった。彼女と二人でいると、新鮮な体験ばかりだ。
しかしながらここ最近は櫻井さんの会社が繁忙期だったようで、こうして顔を合わせるのは久しぶりになってしまった。久々に櫻井さんの顔を見て、自然と癒されてしまう自分に驚く。うむ、浮かれているのだろうか…そうだろうな。
今日はどんな話をしようか、櫻井さんのどんな話を聞こうか。そんなことを考えながら店の方角を目指す。
「夜になると少し冷えますね」
「……」
「櫻井さん?」
「…あ、ごめん。なに?」
櫻井さんの反応が鈍くなっていることが少し気になった。それにペースを抑え気味にしていたのに、櫻井さんとの距離が一歩ほど開いていることに気が付く。少し立ち止まり櫻井さんの顔を見てみると──
「……」
「櫻井さん、顔色が…!」
「聖川、く──」
顔を真っ赤にし、息切れをしている。
その場で立ち止まった櫻井さんは、今にも倒れそうだ。慌てて駆け寄り、ぐったりとしている櫻井さんの額に手の平を当てる。
「失礼します」
「ん……」
「すごい熱が…!すぐに帰りましょう、ご自宅まで送ります」
「けど、」
「大丈夫」と首を横に振る櫻井さんだが、体温も徐々に上昇しているのか息も段々と荒くなっている。身体が大丈夫ではないことは明白だった。これ以上負担はかけたくない。櫻井さんの身体に手を添えて支え、道路脇まで移動してから片手を挙げてタクシーを止めた。
「乗って下さい」
「そ、そんな悪いよ。私、歩いて帰れるから…」
「とにかく行きましょう、ご自宅はどちらですか?」
戸惑いながらタクシーに乗り込んだ櫻井さんに続いて、自分も隣の席に座る。しばらくすると観念したように、櫻井さんは運転手に目的地を告げた。
「聖川くん…あの、本当にごめんなさい」
「謝らないで下さい、櫻井さんの体調が最優先です」
「だって…天ぷら…」
「それはまた今度行きましょう」
「うー…」
心底残念そうにしゅん、とした櫻井さんだが、走り出したタクシーの中でもずっと苦しそうに呼吸を繰り返している。そんな櫻井さんを見て、自分に芽生える罪悪感。
「(もう少し早く、気が付けなかったのか)」
今日、会ってからの櫻井さんの様子を思い出す。今思えば咳をしていたり、どこか疲れている顔をしていた気がする。
そもそも、最近仕事が忙しかったと言っていたではないか。無理に今日、予定を立てなくても良かったのでは。
「聖川くんごめん、着きました」
「…あぁ、すみません。行きましょうか」
考え事をしていたら、いつの間にか目的地に到着していた様だ。タクシーを降りて、櫻井さんが住んでいると思われるアパートの玄関口へと向かった。
「ごめん、今開けるね」
入口の機械でオートロックの暗証番号を入力している櫻井さんを見て、俺はふと我に返る。
「(……いやいやいやいや!)」
さすがにまずいだろう!
何故俺は普通に家に上がろうとしているんだ!
そんなこ、婚前の女性の家に上がり込むなど……。
どうしようかと必死に頭を回転させる。そんな俺の様子に気付いた櫻井さんは「あ…」と小さく声を漏らした。
「ご、ごめん…さすがに嫌だよね」
「いえ!そういう、訳では…」
「送ってくれてありがとう。今日はここでバイバイで良い?」
笑って手を振る櫻井さんのその顔が、自惚れかもしれないが寂しそうで、それでいて不安そうで。呼吸も荒く頬も赤い。
「このような状態の櫻井さんを一人にしておけません」
「聖川くん…」
「もう少しだけ、傍にいてもよろしいでしょうか」
ここで帰ったら、後悔するだろうと思った。このまま別れてもずっと櫻井さんの事を考えてしまう気がする。放っておくなど出来る訳が無い。
それは人としての一般的な配慮か、はたまた櫻井さんが相手だからかなのかは分からない。だが、安心したように少しだけ笑って頷く櫻井さんの顔を見れば、離れないと決めた自分の決断は間違ってなかったと思えた。