別れひとつ
『お話したいことがあります』
春歌からの連絡を受けて、人目を気にしながら目的の場所に向かう。だいぶほとぼりも冷めた頃だと思うけど、決して油断は出来ない。
春歌と会うのは、あの日以来だ。もうてっきり彼女から連絡はくれないものだと思っていたから、連絡が来た時は驚いた。
「(話ってなんだろ)」
今更、彼女から俺に伝えたいことがあるのだろうか。もう二度と顔も見たくない──そう思われても仕方の無い別れ方だったと思う。それでも直接こうしてまた会ってくれるのは、彼女の優しい性格故なんだろう。
少し、気まずいのが本音だけど。俺にそれを言う資格は、当然ない。
指定された場所は、よく行く喫茶店でもなく、互いの家でもなく、シャイニング事務所の前だった。仕事の話かもしれない……そんなことをボーッと考えながら俺は目的地に向かった。
事務所近くまで到着し、被っていたパーカーのフードを下ろす。
ちょうど入口のところに春歌が立って待っていたのを見つけ、慌てて駆け寄った。
そして春歌のその格好を見て、ゆっくりと走る速度を落とす。だって、そこには、
「春歌!」
「…音也君。急にお呼びして申し訳ありません」
「俺は平気だよ!でもっ…どうしたのその荷物……」
大きなトランクとボストンバッグを持ち、佇む彼女の姿があったから。
膝に手をついて息を整える俺の目の前の春歌は、穏やかな表情で微笑んだ。いつもと変わらない、いつもの春歌の姿だ。
「実は今日、日本を発つことになりました」
「えっ…?どういう、こと…?」
「事務所の勧めで、ウィーンまで音楽留学をすることになったんです。今まで黙っていてごめんなさい」
丁寧に頭を下げる春歌だけど、俺は状況が全く飲み込めなかった。学生時代からずっと隣にいた彼女──それなのに、
別れは、あまりにも突然で。
「留学…?」
「以前から興味があったんです。もっと、作曲の勉強をしたいなと思って……今日は事務所まで最後の挨拶に」
「……っ、ST☆RISHの皆には…?」
「メールでお伝えしました。皆さん、頑張ってと応援してくださって」
「それなら今から呼ぶよ!せめて見送りだけでも…!」
「私からお断りしました。だから大丈夫です」
名残惜しくなってしまうので、と春歌は少し寂しそうに笑った。その顔に胸が痛み、ぎゅっと自分の拳を握った。
「どうしても、音也君にだけは直接お別れを言いたかったんです。なのでメンバーの皆さんには内緒にしてもらってました」
「……留学ってどれくらい?」
「最短でも3年は…いつ戻ってくるかは分かりません。それでも社長は、事務所に籍を置いて良いと言ってくださいました」
「そっ、か……」
そうだ、春歌は昔から凄い優秀だった。それは傍にいた俺達が一番よく知っている。だからきっとたくさん勉強して、たくさんパワーアップして、また戻ってきてくれるんだろう。
だけどこうも突然だと……なかなか現実を受け入れることは難しく、頭の中を整理しようと必死だった。
「音也君」
俯いて何も言えなくなった俺に、優しい春歌の声。
ゆっくりと顔を上げると、ひとつのCDを差し出された。
「餞別です。音也君のソロ用に、作曲しました」
「俺に……?」
「はい。今までで一番良い出来かもしれないです!」
寂しさを紛らわすように、春歌は明るく笑う。そっとそのCDを受け取ると、ゆっくりと離れる彼女の手。
「音也君」
「うん」
「私はもう大丈夫です。だから、音也君は……自分の気持ちを、しっかり伝えてください」
「……っ、」
「直接だったら上手く言えないことでも、歌に乗せればきっと届きます。音也君が、私に教えてくれたんですよ?」
「春歌!俺……!」
「今までありがとうございました」
ぺこりと頭を下げた春歌が、タクシーに荷物を積む。上手く言葉が出てこない不器用な俺を、彼女は責めたりなんかしなかった。
どうやって、感謝を伝えればいいか。
今のこの気持ちをどう表現したら良いか分からなくて、ただCDを握りしめるしかなくて。
「では……このまま空港に向かいます」
「うん…」
「どうか、お元気で」
「うん、春歌も。…また、会えるよね?」
「はい!きっとです!」
春歌の口が、運転手に行き先を伝える。
乗り込もうとした彼女の腕を掴む資格は、俺にはないけれど。
「春歌!!」
彼女を乗せたタクシーが走り出す直前、大声で呼び止める。運転手が気を利かせ窓を開けてくれたから、俺は春歌の目をもう一度しっかり見つめた。
「俺…春歌のこと、本当に大好きだったよ」
その言葉に、彼女は大きく目を開いた。
「だから……ありがとう」
最後は泣きそうになっていた。偽りじゃない本音、最後にどうしても春歌に伝えたかったんだ。
「…それが聞ければ十分です」
最後は、春歌も俺と同じように泣きそうになりながら、そう言って笑ってくれた。
軽く指先で涙を拭った春歌は、前を向いて運転手にお願いします、と小さく呟いた。
それと同時に走り出す車。
それに乗り込む春歌の姿が見えなくなるまで、俺はずっと、静かに見送っていた。
「…さよなら」
最後に勇気をくれた、そのCDを握りしめながら。
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