ル イ ラ ン ノ キ


 29…「浴衣を着て」



白い狐は本殿の裏で毛づくろいをしていた。そこに尚人くんがやってきて、狐に向かって「おいで」と声を掛けた。
白い狐ははじめ、尚人くんを警戒しているようだった。姿勢を低くし、直ぐに走って逃げられる体勢でそこにいる。そんな狐の心情を知ってか知らずか、尚人くんは白い狐と少し距離を保ったまま地面に腰を下ろして言った。

「きみもひとりなの? 僕はおかあさんと来たんだけど、おかあさん忙しいみたい」

足元に落ちていた小さな石ころを拾って、森へと投げた。その石ころを白い狐は目で追った。

「やっぱり僕だけあそびに来たのがいけなかったのかな……なおやがいないと寂しいや」
「なおや?」

突然声が返ってきて、尚人くんは驚いた。しかしここには自分と白い狐しかいない。
尚人くんは白い狐を半信半疑でじっと見遣った。

「なおやというのはお前の仲間か?」

白い狐の口が動き、人の言葉を話した。尚人くんは怖がるかと思いきや、被っていたお面を外して食い入るように白い狐を見遣り、興奮したように笑った。

「今きみがしゃべったの?!」
「珍しいか?」

尚人くんは、人の言葉を話す白い狐に夢中になった。
“なおや”というのは自分の兄弟であることを話し、人間に興味を持つ白い狐に色んな話を聞かせてあげた。
それから鬼ごっこをして、隠れんぼをして、木の枝を拾って地面に絵を描いたりして、次第に時間を忘れていった。

「なおひと、楽しいか?」
「うん! 楽しいよ!」
 尚人くんは地面に落書きをしながらそう答えた。
「ならば私の仲間にならないか?」
「なかま?」
 と、尚人くんは手を止め、白い狐を見遣った。
「“ともだち”というものだ」
「いいよ!」
「ただし、家族には会えなくなるぞ」
「え……」
「お前が話していた“がっこう”という仲間たちにも会えなくなる」
「やだよそんなの!」

そう言って尚人くんは持っていた木の枝を放り投げて立ち上がった。
尚人くんの表情が不安で曇る。

「……そうか」
 だけど、寂しそうにそう呟いた白い狐を、尚人くんは放ってはおけなかった。
「さみしいの……?」
「私には“きょうだい”というものがない。“がっこう”という仲間を作る場所もない。遊び相手がいないのだ」
「…………」

そして心優しい尚人くんは言ってしまう。

「じゃあ僕がともだちになってあげるよ」
 と。
「本当か?」
「うん」
「家族が悲しまないか?」
「おかあさんには、まだなおやがいるもん。なおやには学校の友達がいるもん」
「そうか……ありがとう」

──でも
その日から尚人くんはひとりぼっちになった。何故かはわからない。夢の中の尚人くんも何故自分がひとりで神社にいるのか、わからないようだった。尚人くんが仲間になることを選んだ途端に白い狐は姿を消し、次第に尚人くんの記憶が薄れ、自分が何者かもわからなくなってきた頃、森を駆け抜ける脚は風を切るように速くなり、気づけば白い狐と化していた。

自分が何者かもわからないのに、心の遥か奥深くで感じる孤独と痛みがあった。
狐と化した身体の中で、微かに残る尚人くんの意識があった。こうなってしまったのは、なおやを置いて自分だけが楽しんだ罰なのかもしれないと。

      

朝目が覚めた私は、孤独や悲しみが怒りに変わる瞬間を痛いほど感じていた。
私が母に対してそうだったからだ。母は私が幼い頃から付き合う男性を取っ替え引っ替えしていた。それでも決して男に溺れていたわけではなく、私や姉の世話を怠ったことはない。
どうやり繰りしていたのかは知らないけれど、男とデートしているわりには毎朝温かいご飯を作ってくれていたし、夕飯もきちんと手間暇かけて美味しいものを作ってくれていた。幼い頃は眠りにつくまで本を読んでくれていたりもした。
男性からしてみればそんな母は、いい女でもあり、いい母親でもあったのかもしれない。だから次から次へと母の元に男が寄ってきたのだろう。──ただ、飽きっぽい母は直ぐに男を替えてしまうけれど。

母としての責任や自覚を一応きちんと持ってはいたし、口煩いのは仕方ないとして、特別酷い目に合わされたわけでもないのにどこか寂しさを感じていた。なぜだろう。
だからあの日、一緒にお祭りへ行くことになって嬉しかったんだ。でもやっぱり母は男の人と話すことに夢中になってしまった。

あの頃はまだ子供だったから、わがままな思いがあったんだと思う。私だけ見ていてほしかったんだと思う。男の人なんか忘れて、ずっと私と一緒にいてほしかったんだと思う。
要するに母を、独り占めしたかったんだ。
でもそんなわがままな願いが叶うことはなくて、もどかしさに段々とイライラしてきて、母の口煩さやちょっとしたことにムカつくようになった。そしていつしか、苛立ちの原因は自分のわがままな独占欲のせいではなく、母が男とばっか遊んでいるからだと勝手に解釈するようになった。なんで私の気持ちをわかってくれないの? 母は私より男の人が大事なんだ……と。
そうすれば私の気持ちが少しは楽になれたから。誰かのせいにしていれば、楽になれた気がしたから。

「……お腹すいた」

私はベッドから下りて、一階のリビングに向かった。リビングのテーブルには朝食が置かれ、ラップに包んであった。台所の流しに目をやると、すでに朝食を食べ終えたお皿が水に浸かっている。母は先に食べたのだろう。

庭を見ると、母が洗濯物を干していた。私はそそくさと朝食を食べ終えて、台所に立った。

「たまには洗い物するか……」

スポンジを湿らせて、洗剤を付けて洗いはじめた。
私がいなくなった世界で生きる母は、今頃どうしているだろう。泣いてくれているのだろうか。
私の選択は間違っていたのかもしれない。娘を一人失った母を作り出してしまった。そこまでして私は直弥さんがいる世界を選んだ。今更変えられない。

「あら、珍し。洗ってくれてんの?」
 と、母が庭から戻ってきた。
「うん。たまにはね」

私を失った母を思うと心が痛むと同時に、今一緒に同じ世界を生きる母を大切にしようと思った。

「なに、お小遣いはあげないわよ?」
「お小遣い目当てじゃないよ……。あ、ねぇ、浴衣ない?」
「浴衣? お姉ちゃんのがあるでしょ。お祭りにでもいくの?」
「うん。あ……」
「なに?」
「お姉ちゃんのじゃなくて、お母さんのお下がり、ないかな……」

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©Kamikawa
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