ル イ ラ ン ノ キ


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黒 い 島 >

“無”から、徐々に感覚が戻ってくるのを感じていた。
少しずつ、少しずつじわじわと痛みを感じる。はじめに感じたのは背中の痛みだった。なにか、尖った硬いものが背中に当たっている。それから足。足にもなにか冷たく、硬いものが当たっている。じわりと広がっていく痛み。この痛みはどこまで広がるのか、“無”から戻ってきたその感覚に私の意識は集中していた。
全身を蝕んでいくようなとまらない痛みに私の表情も強張ってゆき、ほぼすべての感覚が戻ったとき、私はあまりの痛みに声を漏らしながら体を起こした。そして更なる痛みに顔をゆがめた。

目を開くと、そこはごつごつとした黒い岩場だった。それは広範囲に広がっており、遠くの方に海が見えた。海の存在に気づいたとき、それまでには聞こえなかった波の音が生まれ、潮風のにおいを感じた。
背中や足を刺激していたのは尖った岩だ。私は痛みに耐えながら立ち上がろうとしたが、靴を履いていなかった。衣類はなんの柄もない、汚れた白いワンピース一枚だけ。下着は……と、ワンピースの裾をめくり上げ、かろうじてショーツは履いていることを確認した。
岩場は冷たく、記憶のないスカスカの私の頭の中までその冷たさが浸透してゆくかのようだった。

どのくらい意識なく倒れていたのかわからない。足に力が入らず、暫くは猿のように両手をつきながら海に背を向け、当てもなく先へ進んだ。
けれどもどんなに進んでも黒い岩場が永遠と続いているばかりで、人どころか動物の気配もなかった。

「ここは……ここはどこなんだろう」

声がかすれていた。
ここはどこなんだろう。私は誰なんだろう。私はどうしてここにいるんだろう。

なにも思い出せなかった。

空は青く、どこまでも澄んでいる。
ひと際大きく平らな岩を見つけ、よじ登って腰掛けた。空を仰ぎ、流れ行く雲を眺めた。どこからともなく鳥の声が聞こえ、視界の端から渡り鳥が姿を見せた。手を伸ばしても届くわけがないのに、鳥に向かって指先を伸ばし、「おーい」なんて、声をかけてみる。
渡り鳥は私の存在に気づいているのかいないのか、そのままどこか遠くへ行ってしまった。

海を眺めていた。小さな船でも通りかからないだろうかと。水平線を眺めていると妙な感覚に陥った。あの水平線の先は滝になっていて海の水は流れ落ちているんじゃないかな、とか、あの水平線の向こうは透明な壁があって、その先なんてないんじゃないかなとか、本当は空が下で、海が上なんじゃないかな、とか。

海を眺めるのも飽きた私は岩の上で寝そべり、再び空を眺めた。流れていた雲の数は減って、空の色も変わり始めていた。ぐうとお腹の虫が鳴り、傷だらけの手で摩った。お腹が痛いわけでもないのにどうしてお腹を摩るんだろうな、などと考えた。何者かもわからない自分の行動に疑問を感じる。
黒い岩しかない。植物さえもないこの場所で、食料なんてあるはずがない。それでも、ここからもっと離れればなにかあるんじゃないかと思い、再び海に背を向けて歩き出す。足の痛みに耐えながら、ひたすらに進み続けた。すると、黒い岩場の隙間に白いものが挟まっているのを見つけた。それは石膏のように真っ白で、黒の中に埋もれたそれはとても美しく見えた。
腰をかがめ、それに手を伸ばした。それはとても軽く、私の中指ほどの長さで、中は空洞になっていた。それがなにかの骨だと気づいたのは、よく見ると他にも白いものが沢山落ちていたからだ。

「なんの骨だろう。鳥かな」

なんのためにとか、考えていなかった。気がつけばその骨を拾い集めていた。ただ綺麗に見えたからかもしれないし、ただ暇だったからかもしれない。大きな岩の隙間の奥にも、骨が入り込んでいた。体の節々が痛いというのに、無理な体勢で隙間に腕を突っ込んでそれを拾おうとした。指先に触れているのになかなか取れず、むきになった。ぐいぐいと痛みに顔を歪めながら腕を押し込み、わしづかみにしたとき、硬いそれとは別にやわらかいものに触れた。そのまま腕を引き抜くと、私の手には白い骨と、布の切れ端が挟まっていた。

「…………」

これまで拾い集めた骨を岩の上に置き、その切れ端だけをつまんで眺めた。潮風に揺れるそれは、人の衣服を思わせた。茶色くにごっているが、元は白い布。私は自分が着ているワンピースと照らし合わせた。そして、突然背中にゾクリと悪寒が走り、布を投げ捨てた。その布は風に乗って流れてゆく。

「人……人の骨だ……」

私はこれまでそれを拾い集めていた手をワンピースの裾でごしごしと拭いた。手の平の皮膚をそぎ落としたいほどの勢いでごしごしと拭いた。それでも気持ち悪く、近くの岩で手の平を擦った。血が滲み、あふれ出るまでそれを続けた。

青々としていた空は明るさを落としていた。夜がやってくる。
何度お腹の虫が鳴いただろう。そのたびに私はお腹を摩り、その行動に意味があるのか疑問に思った。

食べ物はなかった。植物なら何でも良かったが、植物は見当たらなかった。ただ、私は真っ先に顔を出した一番星を眺めながら何かを口に運んでいた。動かせそうな岩を退かしたとき、なにか黒いものが岩陰に逃げていくのを見た。それを死に物狂いで捕まえ、口に入れた。決して美味しくはなかった。苦く、食べごたえもなく吐きそうになったが何も食べないよりはいいと思った。一番星が顔を見せるまでその黒い虫を見つけては殺し、見つけては殺して集めた。空腹を満たすためにひとつずつではなく、一気に食べたかったからだ。

すっかり周囲が真っ暗闇に包まれたとき、私は強烈な吐き気と腹痛に襲われていた。口を押さえ、絶対に吐くまいと堪えた。せっかく食べたものを出したくはなかったからだ。冷や汗が全身からにじみ出る。腹を押さえ、悶え苦しんだ。このまま死んでしまうかもしれないと思ったとき、遠くの方でキコキコと船のオールを漕ぐ音が聞こえた。それは私の失われた記憶の中でよみがえった音だと気づいたのは、何事もなく朝を迎えた鳥が私の遥か上空を飛んでいることに気づいたときだった。

私は体を起こし、空を見上げた。落ちて来い、落ちて来いと願ったが、鳥はすぐにどこかへ飛んで行ってしまった。
私はお腹を擦った。もう痛くはない。いつの間にか眠り、その間に痛みが引いてくれたようだった。

私は暫くその場から動かなかった。何をするわけでもなく、ただ岩場の一点を見つめ、呼吸を繰り返した。私は自分が何者でどこから来たのかもわからないが、生きようとしていることはわかる。自らここへ来たのか、意図せずここへ来たのか、誰かに連れて来られたのか。

「…………」

からっぽだったはずの記憶を司る脳の奥でキコキコとオールを漕ぐ音が再生された。

「船……ちいさな……木の船……」

少しずつ、少しずつ、よみがえって来る。
遥か遠くに見える海を見据え、そこに頭の中で船を浮かばせた。キコキコとオールの音を流す。

「……ひとりじゃない。誰かと一緒だった」

記憶のかけらを探して、組み立てていく。
誰と一緒だった? 男? 女? 船は二人乗りだった。二人乗りの小さな木の船で広い海を漕いで来れる? そんなの無理だ。じゃあどうやって?

「途中から……乗り換えてる」

もっと、ちゃんとした大きな船があった。そこから小さな船に乗せられた。誰に? わからない。船を漕いだのは私じゃない。私ではない誰か。船は不安定だった。凄く揺れた。波が強かったから。……違う、波は落ち着いていた。誰かが言っていた。「転覆しかねないな」。その言葉に誰かが答えた。「波は落ち着いてる。早く終わらせて帰るぞ」と。

「早く終わらせて帰るぞ……?」

何度もその会話を脳内で再生し、男の声だと思い出す。ならば一緒に船に乗ったのは男だ。でもなかなかはっきりしない。思い出せそうで思い出せない。船は凄く揺れていた。そのときの感覚がよみがえる。大きな船から乗り換えたからそう感じたのだろうか。感覚ははっきり思い出すのに、波の状態は思い出せない。

私は立ち上がり、周囲を見やった。この島に私以外の人間がいる気配はない。──いや、あの骨は……? あの骨の持ち主は私と共に同じ船でここへやって来た人? そんなはずはない。自分がどれだけの間意識を失っていたのかわからないけれど、その間にひとりだけ骨になるなんてことはありえないはずだ。化け物でもいるならまだしも。

「じゃあ私だけここに置いてかれた……?」

どうして。
私をここへ送った人間がその後帰って行く姿は記憶にない。思い出せないだけだろうか。それとも、そのときにはもう私は意識を失っていたのだろうか。そうだとしたらなぜ意識を失ったのか。小さな船に乗っていたのは確かだ。そこまでは思い出せる。途中から思い出せない。船が転覆したのだろうか。それで意識を失い、ここまで流されたのだろうか。違う。ありえない。私が意識なく寝転んでいたのは海からかなり離れていた。転覆して流されたのなら波打ち際にいるはずだ。

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