ル イ ラ ン ノ キ


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甘 い 誘 惑 ?


19歳の時に妊娠して結婚をした同級生がいる。特別仲が良かったわけではないけれど、二十歳になる前に妊娠して結婚したのは彼女しかいなかったため、私の耳にも届いた。
ふと彼女の存在を思い出したときに、その子供は今頃中学生で、私にも中学生になる子供がいてもおかしくは無いのだ!と思った瞬間、目の前がくらんだ。とうとう大規模な地震が日本列島を襲ったのだと思ったくらいふらついた。
10代の頃に思い描いていた未来図は、どこへいってしまったのだろう。20代前半で好きな仕事を見つけて、20代半ばで運命の人と出会い、30前に結婚。余裕を持った人生計画だと思っていた。
それなのに、夢と現実の違いをたたきつけられる。あの頃の私に会えたなら、その未来図をクルクルと筒状に丸めて頭をスコーンと叩いて言いたい。『予定を思い描くのは誰にでも出来るけど、実行するのは容易じゃないんだよ』と。

「お疲れ様でしたー」
 と、私服に着替えた紫藤さんが軽く頭を下げて休憩室を後にした。

紫藤さんは46歳で、子供が二人いる。旦那さんは一つ上で、サラリーマン。どこにでもいる家族よ、と、彼女は話していた。
私はというと、今年34になった未だ独身の彼氏なし女だ。一番、人から気を遣われる感じの。『まだ大丈夫よ』とか『30代前半はまだ若いわよ』とかね。
見た目は若く見られるお陰か、年齢を訊かれなければ「ご結婚は?」とは訊かれないし、「ちょっとそこの奥さん!」なんて声を掛けられてダメージを受けることも、今のところはない。──今のところは。

私はロッカーから私服を取り出し、作業着から着替えた。清掃会社で働いていると話すと、よく地味だねと思われる。でも私にとっては落ち着く職場だった。人同士の争いはないし、勝手にライバル視されることもない。ここは年配の方が多くて、仕事中は黙々と掃除をするだけだし、休み時間はお菓子をつまみながら旦那さんの愚痴や子供のネタ、近所の迷惑なおばさんの話や、テレビドラマの話で盛り上がり、笑いが絶えない。幸い、「あんたも早くいい人見つけなさいよ」などと言うお節介おばさんはいないし、居心地がよかった。

そんな平穏に、あるときから変化が訪れた。

私は鞄を持って、休憩室のドアの前に立った。大きく息を吸い込んで、ふうと吐く。──今日もいるのかな。いない日はホッとする。でもどこか寂しくて、いたらいたで……緊張する。

「どうしたの?」
 と、まだ休憩室に残っていた石崎さんが私の背中に声を掛けた。
「あ、いえ。お疲れ様でした!」
「はーい、お疲れ様」

ドアノブを回して、休憩室を出た。微かに人の声がする廊下を歩いて、エレベーターの手前で左折して階段を使って1階に下りて行く。その足取りが段々と弱くなる。そして、1階が見えてきたところで足を止めた。──ドキンと心臓が跳ね上がる。
時々、1階の階段に座っている男性がいる。高そうで綺麗なスーツを着こなして、髪型もきまっているのにその手にはいつも四角いパックに入ったメロンジュース。

「お疲れ様です」
 無視して通り過ぎるわけにもいかず、そう声を掛けた。

彼は振り返って私を見上げると、足元に置いていたコンビニの袋からイチゴミルクを取り出して渡してきた。

「おつかれさまです」
 と、笑顔で。
「え?」
「飲みませんか?」
「いえ……私は……」
 まさかの展開に舞い上がる。でも、なるべく冷静を保つ。悟られてはいけないと思ってる。

あなたのことを以前から気になっています。ということを、もし悟られて迷惑だと思われたら、避けられてしまうだろうから。

「そんなこと言わずに」
 と、彼はポケットからハンカチを出し、隣に敷いた。ここに座ってくださいということだろう。

ここまでされたら断りづらい。私はハンカチを手に取り、彼に渡しながら隣に座った。少しだけ距離を空ける。近すぎると緊張して顔が見れなくなってしまうから。

「ハンカチはいいです……」
「汚れますよ」
「ここは綺麗にしたはずなので大丈夫です。それにいつも汚れる仕事をしています」
「それは失礼。でも、汚れる仕事ではなく、綺麗にする仕事では?」
 と、彼はイチゴミルクを私の膝の上に置いた。
「……いただきます」
「どうぞ」

彼と出会ったのは、1ヵ月ほど前だった。いつも通り階段を使って1階に下りていたら、今日のように彼が座っていたのだ。変なところに座っているなぁと思った。邪魔だなぁとさえ思った。そのときはメロンパンまで食べていたからイラッとさえした。ここの階段は私が掃除を任されているからだ。
いくら綺麗にしても汚される。何度掃除をしてもそう。繰り返し繰り返し。意味が無いような気がしてくることもあった。今はもう慣れて、むしろ汚されていると掃除のし甲斐があると思える。

「あの、なんでいつもここでのんびりしてるんですか?」
 イチゴミルクにストローを挿した。
「落ち着くんですよ。ここ綺麗だし」
「…………」
 さっきは“汚れますよ”と言ったのに? なんて、細かいことは言わないでおこう。きっと階段に座らせるのは悪いと思って気を遣ってハンカチを敷いてくれたんだと思う。
「掃除が行き届いていますしね」
「ありがとうございます。でも……じゃあそんな綺麗なところでパン食べたりするのやめてもらえます?」
 これだけは言わずにはいられなかった。少し棘がある言い方をしてしまったかなと後悔した。けれど彼は笑って、すみませんと謝った。
「パンを食べていたのはあの時だけですよ」
「それなら……いいですけど」
 
ちゅるちゅるとイチゴミルクを飲んだ。甘い。甘くて逆に喉が渇く。──でもおいしい。
このイチゴミルクは彼が飲もうと思って買ったもの? それとも、本当は誰かにあげるはずだったものなのかな。
 
「清掃は大変ですか?」
 メロンジュースを飲みながら、そう訊かれた。
「そうですね、トイレ掃除が一番」
「たとえば?」
「飲食中に訊かないほうがいいですよ」

ほんと、酷い。流していないことはよくある。それだけじゃない。男子トイレは女性清掃員に嫌がらせをしているんじゃないかってくらい酷いときがある。体液の入ったゴムがあったときなんて、もう仕事やめて帰ろうと本気で思った。でも、すぐに気づいた紫藤さんが「あんたはこんなことしなくていいから、窓の掃除をお願いね」と言って、代わりに片付けてくれた。
私がこの仕事を続けているのは、一緒に働いている先輩方の人柄が好きなのと、最近は気になる人がいるからで……。
 
「そんなに酷いんですか……」
「えぇ、男子トイレも女子トイレも」
 
女子トイレは先日、誰かの化粧ポーチが便器の中に落ちていた。あれはどう見ても誰かが誰かにした嫌がらせだろう。こういうのに出くわすと気分は最悪だった。
 
「ご苦労様です」
 と、彼は深々と頭を下げた。
「いえいえ……なるべく、綺麗に使ってくださると助かります」
「そうですよね、快適に過ごせるのは“遠野さん”たちのおかげですね」
「…………」

え。なんで私の名前を知ってるの……?

「あ、俺、紫藤さんと仲良しなんですよ」
 と、私の警戒心を解くように、彼は言った。

警戒なんかしてないんだけれど。驚いて言葉に詰まっただけ。

「あ、そうなんですか?」
「気さくに話しかけてくれて。この前は飲みに誘ってくれたんですよ」
「それ意外です。いつも一目散に帰るから。お子さんもいるし」
「俺が今度相談に乗ってくださいよって軽い気持ちでお願いしたら、誘ってくれたんです。紫藤さんは俺の母によく似てるんですよ。といっても母はとっくに50過ぎてるんで、『母親はやめて! せめておねぇさんにして!』って言われましたけど」
 と、優しく笑う。目じりに皺が出来て、彼の人柄を表しているようだった。
「あはは、分かります。そのときに私のことも? 変なこと話してなければいいんですけど」

というより、まず自分が紫藤さんに変な話をしていなかっただろうかと思い返す。人に言いふらされて嫌なことは話さないようにしてはいるけれど。

「俺がここで一休みしていたときに、紫藤さんに声を掛けられて。『ここで飲食してたら怒られるわよ』って。うちの上司は口うるさい人がいないから大丈夫ですよって言ったら、『あんたんとこは大丈夫だろうけど、うちの遠野ちゃんが怒るわよ』って」
「えっ、そこで私の名前が出てきたんですか? やだなぁもう……怒らないのに……」
「そうなんですか?」
「……いや、ちょっとはムッとしますけど」
 と、声を小さくして言うと、彼は笑った。
「それで、遠野ちゃんって誰ですか? って訊いたら、清掃員の看板娘だっていうから気になって」
「あぁ……さいあく。」

なんでそんな嘘をつくんだろう。看板娘って、娘とは言えない年齢だし、看板娘って訊いたら自然と美人を思い浮かべるじゃない。

「イメージ通りでしたよ」
 彼はそう言って、メロンジュースを飲み干した。
「それどんなイメージ持ってたんですか……。絶対他にもなにか聞いてますよね? 私のこと」
「んー、どうだろう」
 彼は曖昧に答えると、コンビニ袋からみたらし団子を取り出した。
「食べます?」
「いえ……」
 なぜ甘いものばかり?
「これなら汚れないかと思ったんですけど、タレが落ちますかね?」
「それより、帰ってから食べたほうがいいんじゃないですか? こんなところで食べなくても」

そのとき突然女性社員が廊下から顔を出した。階段に座っている私と彼を見て、足を止めて驚いた。けれどすぐに笑顔をつくって階段を上がりながら言った。

「本田君、こんなとこでナンパは悪趣味」
「おつかれー」
 と、彼は笑顔で返した。

女性社員は階段を上がって行き、見えなくなった。

「お知り合いですか?」
 と、私は訊いた。
「同じシステム部の浅賀さん」
「綺麗な人ですね」
「まぁ、部長のお気に入りですね」
「本田さん……ていうんですね」
 思わぬ収穫。名前も知らなかったから。
「あ、まだ自己紹介してませんでしたっけ、本田稔(みのる)です。同い年ですよ」
「あっ! 年齢知ってるってことはやっぱり私のことまだ訊いてるじゃないですか! 他になに聞いたんですか? 紫藤さんがおしゃべりなのは知ってたけど、私の知らないところで色々話されるのはいい気分ではないです……」
 
34にもなって彼氏もいないのよ。とか、ろくに掃除もできないの。とか……言われていないかな。言わないか……紫藤さんは優しい人だから。
 
「紫藤さんのこと、責めないでやってくださいね」
「責めるだなんてそんな……」
「俺が聞き出したんです。遠野さんのこと。気になっていたから」
 

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©Kamikawa

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