ル イ ラ ン ノ キ


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夏の夜


素敵な人と出会うたびに、薬指を見る癖がついてしまった。大概、いいなと思った男性は薬指に輝く指輪を付けている。

今年34歳。仲がよかった同級生はみんな結婚して、私が一番最後。完全に取り残されてしまった。
どうしてこの年齢まで独身で来てしまったのか、私が知りたい。モテるとまでは言えないけれど、人並みに恋愛はしてきたし、遊びまわっていたわけじゃない。きちんと将来を考えて真面目に恋をしてきた。それなのに、相手の男性に応えてもらえなかった。
私に原因があるのかもしれない。男を見る目がなかったのか、もっといい女だったら結婚を申し込まれていたのか、どちらかだと思う。
まだ結婚もしていない段階から彼の家にお泊りする度に手料理を振舞った。それは相手がそれを望むからであって、恩着せがましくしていたわけじゃない。私自身、料理は好きだし。外食は出来るだけ割り勘だった。私がそれを望んだ。彼は助かると言ってくれたし、余裕がある時はおごってくれたりして、お礼は欠かさず伝えていた。
わがままはいい過ぎないようにしていた。仕事が忙しくてなかなか会えないとき、寂しいということは伝えていたけれど、「仕事と私、どっちが大事なの?」などと彼を困らせるような質問を投げかけたことなんかないし、会いたい会いたいと連呼しまくった覚えもない。

大好きだよって、素直に伝えてた。
5年間、私の気持ちは変わらず彼にあって、彼と結婚するんだと思ってた。
プロポーズを急かしたことはない。でも、年齢的に待っていた。
それなのに。

「ごめん、別れよう。他に好きな人が出来た」

こんな短い言葉で、私たちの5年間に終止符を打たれた。彼が好きになったのは、20代の若い女の子だった。
そりゃそうだよね。わかるよ。若い子の方がいいのは。でもさ、この年まで放置してたのはあなたでしょう?この年になるまで……。
そう言いたかった。言えなかったけど。

言ってやればよかった。そして慰謝料を……と思ったけれど婚約していたわけじゃないから無理か。婚約破棄なら慰謝料を貰えたかもしれないのに、冷静に考えれば私は、婚約者にすらしてもらえていなかった、その程度の女だったのかもしれない。もっといい女と出会うまでの、つなぎだったのかもしれない。

「でも子供は何人欲しい? とかそういう話はしてたんだよ? 結婚する気がないなら思わせぶりな態度とか発言とかやめてほしいよ!」

そう吐き出すと、つぶらな瞳が私の顔を見上げた。柴犬のポコンタである。
午後4時28分。蒸し暑い夏に川のせせらぎを聞くと少しだけ涼しく感じる。私はポコンタの散歩に出ていた。

「ポコンタ、君は私の苦しみがわかる?」

ポコンタは私を見上げ、尻尾を振った。どういう意思表示なのかわからない。

「犬にはわからないか」
 でも可愛くて癒される。「私も犬飼おうかな……」

──と、そのときだった。ポコンタがいきなり走り出したため、ぐいと引っ張られた私はリードを離して派手に転んでしまった。
ポコンタはひとりで川の方へと土手を下りていった。

「ちょ……待って……」

私は慌てて擦りむいた足で起き上がり、ポコンタを目で捜した。すると、土手の下で人に襲い掛かっているポコンタが目に入り、ぞっとした。

「ポコンタッ!!」

土手を転げ落ちそうになりながら駆け下りた。近くに階段があることにも気づかないくらい慌てていた。ポコンタに押し倒されている人に走り寄ると、笑い声が聞こえた。
興奮しているポコンタの下敷きにされていたのはスーツ姿の男性だった。ポコンタはしきりに彼の顔を舐めまわしている。

「ぽ……」
「あ、貴女の犬ですか?」
 と、彼は笑顔で立ち上がった。

彼は綺麗な顔立ちをしていた。真夏だというのに長袖のスーツを爽やかに着こなしている。──私の癖が出た。彼の薬指。眩しい指輪はなかった。

「す、すいません! 私の犬っていうか預かってる犬で……」
 と、ポコンタのリードを拾おうとした手が止まる。

──な、なにしてんの……。
綺麗な彼の足にしがみ付いて腰を振っているではないか。

「す……すみませ……」
 信じられない信じられない信じられない! 恥ずかしい!
「あはは、元気だなぁ。でも俺、男なんだけど」
 そう言って苦笑する表情も素敵だった。
「すみませんッ!」
 急いでリードを掴み、引っ張った。しかしポコンタは彼にしがみ付いて離れない。
「好かれてしまったみたいだなぁ」
「ちょっといい加減にしなさいよ! 困ってるじゃない! 聞いてるの!? ポコンタ!!」

なんか急に“ポコンタ”という名前を呼ぶのも恥ずかしくなってきた。なんで友人はポコンタにしたんだろう。可愛い洒落た名前じゃなくてもせめてポコタにすればよかったのにポコンタって……。ポコンタに悪いけど。

「面白い名前ですね」
 と、案の定言われた。
「この子を飼ってる友人がつけたみたいで……」
 と、話している今もポコンタはアホみたいに腰を振っている。

──恥ずかしい。猛烈に恥ずかしい。

「俺も犬飼おうかなぁ」
 と、爽やかな笑顔で、自分の足に腰を振り続けているポコンタの頭を撫でた。

なんていい人なんだろう。オス犬に腰を振られまくっているのに。

「昨日から預かっててまだ私に懐いていないようで……」
 ぐぐぐっと、リードを強く引っ張り、彼の足からやっとポコンタを引き離した。

ポコンタはさっきまで人間のオスに腰を振っていたことなど忘れたかのように川の水面を眺めている。──わからない。犬がなにを考えているのかわからない。

「そうだ」
 と、彼はなにかひらめいたかのように腕時計を見遣り、時間を確認してから私に視線を戻した。
「少しだけ、散歩させてもらえませんか?」
「え?」

ポコンタが尻尾を振りながら彼の足にまとわりついた。人間の言葉を理解したのだろうか。もしかしたら“散歩”に反応したのかもしれない。自分がポコンタを散歩に連れ出そうとしたとき、寝ていたのに「散歩いくよー」と声を掛けた瞬間に起き上がったから。

「昔、祖母の家で飼ってた犬にそっくりなんですよね。それにこんなに懐かれてしまったら仕事に戻りづらくて」

彼はポコンタの前でしゃがみ込み、頭を撫でた。その犬の名前はポチ?と聞きたくなる流れだった。まぁ柴犬は大概同じような顔をしている気がするけれど。
理由はどうであれ、もう少し話が出来るのは嬉しい。ポコンタは愛のキューピットだったりするのかな。なんて、いい年して恥ずかしい。

「ありがたいです。昨日私が散歩したときも大変だったので……急に走り出すし、と思ったら道に伏せて動かなくなるし……」
「あはは、ちょっとわがままなのかな」
 と、彼は立ち上がる。「俺、松崎ヒロキって言います」
「ひろしさん? 私は後藤みおりです」
「──いや、ひろしじゃなくてヒロキ。俺そんな滑舌わるいかな」
 彼は困ったように笑った。
「あ、いえ、私の耳が悪くて……」

──というと「年齢的に」が自然と含まれている気がして苦笑いするしかない。

私はヒロキさんにリードを渡した。前方に見える橋まで、散歩。彼がリードを持った瞬間に大人しくいい子になるポコンタ。なんなんだろう、この違いは。

「あの、ヒロキさんはなんのお仕事を?」
「あれです」
 と、彼は川と反対側にある道を指差した。道の端に、タクシーが止まっている。
「タクシー? 運転手さん?」
「はい。今は休憩中でした」
「そうなんですか」
「以前は広告会社で働いていたんですけど、実家が飲食店で親父が入院したもんだから手伝いをするために県外からこっちに戻ってきたんです」
「それで新しい仕事を?」
「はい。知り合いがタクシー会社に勤めていたので無理を言って」
「そうなんですね、お忙しいのでは?」
「うーん……ですが、これまで自由に好き勝手やらせてもらってきたので、これからは親孝行していきたいなと思っているんです」

前を歩くポコンタが、時々振り返っては彼の顔を見上げていた。オスの犬も見惚れる綺麗な顔立ちなのかもしれない。

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©Kamikawa

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