ル イ ラ ン ノ キ


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一万円のメロディ
私の足を止めたのは下手くそな歌声だった
 
長かった夏が通り過ぎていく。汗で前髪がぺたんこになったり、化粧が崩れたり、汗染みや汗臭さを気にしていたりと何かと面倒臭かった季節が背を向けて、ようやく過ごしやすい季節がやってきた。そう思っていた矢先だった。
仕事で失敗をして上司に叱られて、入ってきたばかりの後輩に「どんまい!」なんて言われて、同期に笑われて……そんなプライドがズタズタになった帰り道。ローヒールなのに歩道をうめつくすタイルの小さな溝に足を取られそうになる。靴を脱いでごみ箱にぶち込んで、明日からスニーカーにしてやろうかとさえ思う。小さなことで苛立ってくる。前から歩いてきたカップルの甲高い笑い声にさえ、寝る場所を探して飛び立った鳥の鳴き声にさえ、不快感を覚える。
 
下を向いて歩いているから視界が狭く、苛立つのかもしれない。そう思って見上げた夜空には、私の心境など関係なく沢山の星が瞬いていた。最低な日だったと感じて苛立つ私を面白そうに高見の見物をして笑っているように見えて、腹立たしい。
 
──と、その時、私は視線を落として足を止めた。路上の脇であぐらを組み、ギターを抱えている男の人がいたからだ。
別にそれは珍しい光景ではない。この辺りは夜でも人通りはそれなりだし、弾き語りには持って来いの場所らしく、一定間隔ごとによく見かける。たまに個人でやっているらしい怪しげな占い師や、上手いのか下手なのかわからない絵を並べて売っている人なんかも見かけたりする。見慣れた光景だったし、私はいつもちらりと一瞥しただけで通りすぎていた。それは私の周りを歩く人達だってそう。足を止めるのは酔っ払いくらいだ。
 
以前、酔っ払いのサラリーマンがポケットからくしゃくしゃの五千円札を出してギターケースの中に放り投げたのを見たことがある。恐らくその酔っ払いはべろべろに酔っていたから覚えてはいないだろう。朝になって五千円札がないことに気づいて、どうせ飲み代に使ったんだろうとか思うのかもしれない。それは決して弾き語りに心を奪われて払ったお金ではないということになる。いや、酔っていたとはいえ、その時にたまたま聴こえてきた心地の良いメロディーや歌声に心を奪われたということもなくはないのかもしれない。シラフで聞いたらつまらない駄洒落も、酔っ払っていたら面白く聞こえることもあるように。
どちらにせよ、五千円も貰えたギター少年は嬉しかったことだろう。そのお金を音楽に関することに使ったのか、友達とパーッと遊びに行くことに使ったのかは分からないけれど。
 
五千円も貰えるなんて、滅多にないことだと思う。野次を飛ばしている人の方がよく見掛ける。唾を吐きかけられたり、お金ではなく、くしゃくしゃのレシートを入れられたり。音楽で食べていこうなんて簡単に甘い考えを持っていた若者は、二度とここの路上には姿を見せなくなる。本気で夢を目指している人はそれでもまた足を運んで、ギターを鳴らしている。
 
そして私は初めて今日、足を止めた。ギターを鳴らしているのは男だった。座っていて、フードを被って俯いているため、年齢も顔もわからないが、声と体格で男性だとわかる。私の周りを歩いている人達も、立ち止まりはしないが思わず彼に目を向けていた。
そして、笑っている。
なぜ私が足を止めたのか。それは彼のギターと歌声があまりにも“下手くそ”だったからだ。素人でもわかる。幼児でもわかるんじゃないだろうか。わざと音を外しているのかと思うほどそれはそれは酷いものだった。
 
彼はフードの下から見えた私の足に気づいたのだろう。鳴らしていたギターを止めて、顔を上げた。──20代……だろうか。いや、高校生に見えなくもない。街灯の明かりだけではよくわからない。
私は彼と目が合い、少し戸惑った。ほぼ無意識に足を止めていたからだ。
 
「……今の、なんの曲ですか」
 慌てて何か掛ける言葉を探し出したのがこれだった。
「オリジナル」
 彼は低い声でそう答えた。
 
少しぶっきらぼうに聞こえたが、歌わなければ普通にいい声だった。アクション映画のナレーションなんか向いているんじゃないだろうか。
 
「タイトルは?」
 
すぐに去ることも出来たけれど、もう一度彼の声が聴きたいと思った。歌声ではなく、話し声を。それだけ彼の声は魅力的だったのだ。そう思うのは私だけかもしれないけれど。
彼はあぐらをかいた足元に置いていた楽譜に目をやった。
 
「希望の闇」
「希望の闇? 希望の光じゃなくて?」
 私がそう訊くと、彼は確かめるようにまた楽譜に目を向けた。
「闇」
「そう……」
 
自分で作った曲なのにタイトルも覚えていないのだろうか。それともタイトルは別の人が考えたのだろうか。
 
「それ、あなたが作ったの?」
 
ただ何となくそう訊いたのだが、すぐに後悔した。彼がフードの下から鋭い目で私を睨みつけていたからだ。
 
「あ……ごめんなさい」
 
あなたが作ったの? だなんて、失礼すぎる質問だっただろうか。彼はどう受け取ったのだろう。
 
「あっちに行け。邪魔だ」
「は……?」
 
彼はまた俯くと、下手くそなギターを鳴らしはじめた。
 
「ちょっと……邪魔はないんじゃない? 人がせっかく貴方の音楽に足を止めたのに」
「下手くそな音楽を聴いて何が面白い。からかいたいのか」
 下手だという自覚はあるらしい。
「そんなんじゃ誰も聴いてくれないよ?」
 私はむしゃくしゃしてそう言った。短気になっていたのかもしれない。今日はいいことがひとつもなかった。
「聴いてほしいなんて思ってない」
「じゃあなんでこんなところで弾いてるのよ。ギターの練習したいなら家ですれば? 煩いとでも言われたの? だったらここじゃなくても人通りの少ない公園にしたら? 音楽を甘くみてると痛い目に合うよ。私見てきたんだから。酔っ払いに絡まれてるやつ」
 
鳴らしていたギターの音色が途切れた。急に静寂に襲われたような気がして、ぞくりとした。
 
「黙れ。邪魔だって言ったのが聞こえないのか」
「なによ人が忠告してやってんのに」
「どけって言ってんだよ!」
 
低い声で怒鳴られて、私は足がすくみそうになった。──なにこいつ。そりゃあ余計なお世話だったかもしれない。もしかしたらそこらの酔っ払いよりタチが悪かったのかもしれないけれど、そんな言い方ないじゃない……。
仕事のことといい、落ち込むことばかりだ。結局は自分が蒔いた種なんだけど。
 
「ごめんなさい」
 
私は小さくそう言ってその場を離れた。するとまたすぐに音程もテンポも狂ったメロディが背中から聴こえてきた。思わずまた振り返って彼を見遣った。彼は時折足元の楽譜を見ながら、一点に視線を向けていた。まるでそこに向かって弾いているかのようだった。
気になった私は彼の視線を目で辿った。彼のいる歩道がある。二車線の道路があって車が行き交っている。その向こう側には歩道がある。
私はハッと息をのんだ。彼が私に向かって邪魔だと言った理由がわかったからだ。車道の向こう側の歩道に、電柱が立っている。その下に、白い花が沢山供えられていたのだ。
 
私はもう一度彼を見遣った。──やっぱりそうだ。彼はあそこに向かってギターを鳴らしている。そう思ったとき、派手目な若いカップルが彼の前を通りながら言った。
 
「下手くそなんだよ!」
 
大笑いしながら通り過ぎていった。けれども彼はギターを鳴らす手を止めなかった。一生懸命にギターを鳴らしながら、車道の向こう側まで聞こえるように、声を張り上げていた。
 
彼が弾き語りをしている事情なんかしらない。だけど強く心を打たれたのは間違いない。
その夜、下手くそな歌とギターは、いつまでも鳴り響いていた。それまで嘲笑っていたはずの満天の星空は、彼の為に瞬いているように見えた。
 

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©Kamikawa

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