ル イ ラ ン ノ キ


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ふわりと体が浮く。

快楽とはどんなものなのか。少なくとも不快感とは真逆の感覚が、血液と共に心臓から全身へと駆け巡ったような気がした。
いつからか、私はどこかふわりと体が軽くなったような感覚を覚えるようになり、それがなんなのかはわからないが気持ちよく感じる瞬間でもあったから、原因を突き止めるようなことはしなかった。

その感覚に不安を覚えるようになったのは“彼”ともう一度出会ってしまったからだ。
いつもと変わらない仕事の帰り道。いつもと違う行動を取ってみようと思い立った。理由は特にない。いつもと同じ帰り道に対して、『あぁ、今日もいつもと同じだな』と思ったからで、じゃあたまにはいつもと違うことをしてみようと思っただけのこと。

普段はただ通り過ぎる場所で足を止めて、路地裏に目を向けた。どこか風情のある路地裏は、民家の外壁を伝う緑の植物が新しい世界へと誘うアーチを思わせた。

ちょっと行ってみようかな。

この道の先になにがあるのか、知らない。知っている道に出るだけかもしれないし、お洒落で隠れ家なお店があるのかもしれないし、もしかしたら本当にどこか別の世界へと通じているのかもしれない。
22にもなってそんなことを考えるのは精神的にまだ大人になりきれていないからだろうか。他の皆はもう、そんなことを考えたりはしないのだろうか。それとも、別世界へ通じる道がどこかに存在するかもしれないと思いつつも、決して言葉に出さないだけだろうか。
 
私は足のつま先を路地裏に向けて歩き出した。一歩一歩踏み出すたびに、ほらまたふわりと体が軽くなったような不思議な感覚に囚われる。いつからだろう。この感覚の虜になってしまったのは。

そして私の足が歩みを止めたのは、道の先に男性が立っていたからだった。こちらに背中を向けて仁王立ちをしている。この先へは行かせないと通せんぼしているかのように。

声をかけようか少し迷う。けれど、『ちょっとすみません』と言って道を譲ってもらってまでこの先へ行きたいとは思わなかった。仮にこの先へ行って行き止まりだったらまた戻ってくる際に会うのは気まずいし。
だから私はなにも言わずに引き返そうと、Uターンした。──と、その時だった。

「すみません」
 と、私に気づいたその男性が道の端に移動したのだった。
「あ、いえ。大丈夫です」
 彼の顔を見た私は息を呑んだ。

そこに立っていたのはずっと会いたいと思っていた人だった。あの時、私に靴を買ってくれた人だ……。

「でも……」
「なんとなく……路地裏に入ってみただけなので」
 だから特にこの先には用はないことを、動揺しながらもそう伝えた。
「そうでしたか」
「あなたはここでなにを?」
 彼は道の中央で仁王立ちをしていた。
「猫を捜してるんです。見当たらなくて」
「猫?」
「ずっと捜してるんです」
「飼っている猫ちゃんですか?」
 と、辺りを見回した。「どんな猫ですか?」

私を覚えていますか? 流れで訊いてしまおうかと思ったけれど、出来なかった。知らなかったら悲しいから。とはいえ、彼からはなんの反応も見受けられないことから彼は私を覚えていないのだとわかる。

「白い猫です。尻尾の先が折れているので見かけたらわかるかもしれません。名前はリーベといいます」
「見かけたら連絡しましょうか? この辺は仕事帰りにいつも通るので」
 本当はまた会える口実が欲しかっただけ。
「助かります。でも」
 でも。彼はそう言って困ったように笑った。
「でも?」
「あ……いえ。ではここに連絡して下さい」
 渡された白い紙には携帯電話の番号が書かれていた。

何かそこに一瞬の違和感を抱いた。突き止めようとする間も無く、私は彼に軽く会釈をしてその場を後にしていた。
違和感に気がついておきながらそれを突き止めようとしないのは大したことではないと思っているからだ。もしくはそう思いたいと思っているからだ。

白い猫を捜していた男性。顔立ちが少し大人びていたけれど間違いなくあの時出会った男性だった。また名前を訊き忘れる。今度こそ訊いておけばよかったと思いながらも振り返りもしなかったのは、また会えると思ったから。その理由はわからない。そういうものだと思っている。会おうと思えば会えるだろうと。それも100%、会える。

──私には不思議な力がある。

誰に言っても信じてはくれないだろうけれど、私が願ったことはなんだって叶ってしまうのだ。だから彼とこうして会えたのも私が望んだからかもしれない。
いつからかふわりと体が軽くなったような感覚を覚え始めた頃から、そういった不思議な体験をすることが多くなった。あの人に会いたいと思えば会える。雨が降るように願えば雨が降る。晴れろと願えば青い空が上空に広がる。
もしこの世界から人間が一人もいなくなることを望んだら……。怖くて望めなかった。きっと叶ってしまいそうだから。

私はいつからこんな不思議な力を手に入れてしまったのだろう。はじめは気がつかなかった。雨の日に晴れることを願った。その通りに太陽が顔を出しても、晴れてよかったと思っただけで私の願いが通じて叶ったのだとは思わなかった。ふいに見逃したドラマを思い出して、再放送しないかなと思っていたその日に再放送があっても驚いただけでこんな偶然があるんだなと思った程度だった。
私が自分の力に気づき始めたのはそのふわりと体が軽くなったような感覚と向き合い始めた頃だった。同僚の女性に陰口を言われていることを第三者の口から聞かされて腹が立った。偶然階段を下りている彼女を見かけて、落ちろと願った。でもそれは落ちないとわかっていたから願ったことであって、本当に落ちるとわかっていたら願わなかった。それなのに、彼女は階段を踏み外して12段の高さから落下した。
ぞくりと嫌な汗が滲んだ。彼女は救急車で病院に運ばれ、一命は取り留めた。偶然かもしれない。きっと偶然に違いない。そう思っても不安は募るばかりだった。

自分にはおかしな力がある。そう確信したのは、翌日の朝だった。同僚のこともあってなかなか眠れなかった私は体の疲れが取れておらず、仕事を休みたかった。

「今日が日曜日だったらいいのに」
 そう本気で呟いた。

水曜日だったはずのこの日、日曜日になってしまったのだ。外に出るといつもと違う雰囲気に戸惑う。通勤時間だというのに子供連れの親子やカップルがいたりする。毎朝同じ時刻に家を出るといつも見かける顔なじみもいない。日曜日だと気がつくのにそう時間はかからなかった。

私の願いは願えば叶う。だから彼とも、連絡先を交換などしなくても会おうと思えば会えるのだ。
絶対に。この法則が狂ってしまわない限りは。

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©Kamikawa

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