ぱしゃんとまいた水は陽の光を受け、水晶のように一瞬輝いてそして落下していく。
最後の一滴まで柄杓の水を落としきって、一息をついた。

「名前ちゃーん、水まいたらこっち運んで。」
「あ、はーい!」

いけない、一息ついている場合ではなかった。カラリと音を立て柄杓と桶を転がし、慌ててのれんをくぐる。店内には笑い声が響いており、どうやら今日も盛況らしい。厨房から顔を覗かせたおかみさんから早速うどんを受け取って、私は背筋をぴんと伸ばした。そのままいそいそとお客さんのもとへとうどんを運ぶ。

「お待たせです。どうぞ。」
「ありがとう。おうおう、えらいべっぴんさんやな姉ちゃん。」
「もう、お上手ですね。」
「さすがうどん屋の看板娘だ。」
「姉ちゃん、こっちに茶くんねえか。」
「はーい、ただいま。」


賑やかさと熱気が気持ちを高揚させる。
軽い足取りで店内を動き回っていると、「おい、」と低い声が聞こえた。

振り返れば、こちらに湯呑みをずいっと差し出している潮江さんがいた。

「茶を。」
「はい!」

元気よく返事した私の笑顔をちらりと見て、そのまま潮江さんはふいっと興味などまるで無さそうに頬杖をつく。

「おいおい兄ちゃん無愛想だな。」
「よく通ってるんだろ?ここに。姉ちゃん目当てなら可愛いくらい言っとかんと。」

笑い声を響かせてそう楽しそうに騒ぐのは周りだけで、等の本人である潮江さんは表情を崩さずなにも答えない。

私はといえばそんな会話など聞こえていないふりで、頼まれたお茶をていねいに淹れる。


潮江さんはここ最近、頻繁にやってくるお客さんだ。



にこやかに接すると鼻の下を伸ばして応えてくれる普通のお客さんと違い、潮江さんは何度顔を合わせても無愛想だった。そんなわけで看板娘と言われ慣れてきた私のショックはといえば結構なものだったわけである。

でも潮江さんは、どうも私の淹れたお茶が好きらしい。
というのは、毎度毎度絶対に私を呼び止めてお茶を頼むからだ。私には絶対頼まないのよ、とおかみさんはケタケタ笑ってからかってくる。

たまたまです、と口では言うけれど内心嬉しがっている自分もいるわけで。
実際は無愛想な潮江さんにお茶を頼まれることを楽しみに待っているくらいなのだ。



「どうぞ。潮江さん。」

そっとお茶を差し出すと潮江さんはああ、と言って目を見ずにありがとうと呟いた。いつもどおりの反応だ。


私が潮江さんの名を知っているのは面白がったおかみさんが潮江さんに名前を聞いたからだ。潮江さんは最初いぶかしげな表情をして迷惑そうにしていたけど、しつこいおかみさんに観念したのか苗字だけを教えてくれた。

潮江さんに関するそれ以上のことは何も知らない。

こんな田舎のうどん屋にやってくるのは農家の人ばかりなのに潮江さんはいったい何をしている人なのだろうか。見たところ農家の人の風貌ではない。
その答えは、しかし絶対に知ることはないのだろう。



「姉ちゃん、美味しかったよごちそうさん。」

お金を置いたお客さんがまたひとり、席を立った。

「ありがとうございました。」
「おお。」

私は頭を下げて、ひと時の満足感を味わう。一番の幸せのときだ。
そして晴れやかな顔のお客さんが見えなくなると、今度は言い知れない寂寥感でいっぱいになる。いつもと同じだ。



店に戻るともうお客さんは潮江さんしかいなくなっていた。その潮江さんがまた私を呼んだ。
もう一杯お茶がほしいのだろうか。返事をして傍に行くと、潮江さんがこちらを見上げてきた。

「浮かない顔だな。」
「え?」
「いつもお前は客を送った後は浮かない顔をしている。」

知らぬ間に感情が顔にでていたようだ。お客さんに指摘されるとはなんたる失態か。恥ずかしくて申し訳なくて、すみません、と思わず謝ってしまう。

「看板娘なら笑ってろ。それが勤めだろう。お前は一体、何がつらいのだ。」

潮江さんがこんなにも私に喋りかけてきたのはそれが初めてだった。そのことに動揺しながら、口を開く。

「っ、お客さまに対する意識の配慮が欠けていました。」
「そんなことは聞いとらんわ。バカタレ。」
「す、すみません。」
「何が辛いかと聞いている。」

潮江さんは隈のある目をぎろりとさせて私を睨み付けていた。実際には潮江さんに睨んでいるつもりはないのだろうがなんせ怖い。私はビクビクしながら言葉をまとめにかかる。

「ええと、きっと寂しいのです。」
「…客と離れるのがか。」
「いいえ。来てくださるお客さんの記憶から、私という存在が消されていくことが。」


辺鄙な町の看板娘のさだめではあろう。きっと私のことなど皆すぐに忘れていく。
私はその瞬間だけ人のなかで輝く、いわば一瞬の幻なのだ。


そこでハッとする。また私はお客さんになんてことを。
またバカタレと言われるかと思ったが、潮江さんは黙ったままだった。
そのことが余計に気まずい。


「あの…何か言ってくれて良いですよ。自意識が過ぎて、馬鹿なことを言っている自覚はありますから。」

潮江さんに余計な気を回されたら一番つらいのは自分だとわかっている、だからこそ出た言葉だ。自己防衛に走る己に心底うんざりする。

「お前は―、」

重苦しい口をようやく開いた潮江さんは、そこでしゃがれ声を治すように咳払いをひとつした。
かちりと視線がぶつかる。

「…お前はちゃんと関わった奴らの時間に存在しているさ。ただ、気がつかれないだけでな。悲観することなんてない。確かにお前は人の人生を彩ってる。」

まっすぐに私を見て潮江さんはそう言った。胸の空気がぶるぶると震え全身が騒ぎ出して、たまらず私はすこし息をとめた。優しくて、くるしい。

「っそう思いますか、私、ちゃんといますか。」
「少なくとも俺の人生にお前は参加していて、俺を作ってる。」


鯉みたいにすこし上を向いて口をぱくぱくさせながら、必死に私は息をつなぐ。


「潮江さん。」
「お前の淹れた茶はうまかった。ここに通えてよかった。」
「潮江さん、」
「なんだ」
「私、ここにいますから。」

透明にふらふら漂いながらずっとここでお茶をいれていますから。


潮江さんはなにも答えなかった。


潮江さん、
潮江さんには、ちゃんと私が見えているって
そう、今だけうぬぼれてもいいですか。


空になった湯飲み
しずかな空間


いつか透明になりゆく時間が流れていく。

もうすぐ終わってしまうこの時間がひどく愛しい。できることなら手放したくない。

それでも
あなたはなにものなのですか、と口にできないことが悔しくて仕方なかった。



叶うならば私という存在が潮江さんのなかで透明になりませんように

こんなときだけ都合良く、透明な存在にお祈りをして、
わたしは潮江さんが席を立ってお別れの言葉を告げるのをじっと待つのだ。







(確かにあったのにわすれちゃうもの)






透明な時間






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -