fatalismo | ナノ


 暑い季節がやってきた。正直に言おう、私は夏という季節が嫌いだ。夏休みも休みは嬉しいけど好きじゃない。何故なら暑いから。理由はそれ以上でもそれ以下でもない。早く夏がすぎ去ればいいと思う反面、そうなると私が四季の中で最も嫌いな季節が来ることになる。時間の流れが止まらない以上仕方のないことなのだけど、嫌いな季節が二つも続けて訪れるのは考えるだけで凄くだるくなる。そして現在進行形でだるいのは、暑いという理由もあるがそれと同時に、目の前にいる雹おにーさんが、私の米神を掴んでいるからという理由も大きい。痛みよりもその手の熱さと大きさが気になった。熱を頭から注ぎ込まれてるみたいで本当にだるい。
 今日のおにーさんはいつもと様子が違った。きっと私と同じく暑いからっていうのもあったんだろうけど、それ以上に、どこか、おかしくて。普段なら気だるそうに鬱陶しそうに私を追い払うのに、「るっせぇな、お前には関係ないだろ!」なんて、終いには怒鳴ってまで何かを隠そうとしていたのだ。階段を一段飛ばしで昇る背中は、私から逃げたいと言っているような気がした。
 雹おにーさんがここまで感情的になる理由と言えば一つしかなくて、まぁ案の定原因は秋緋ちゃん。図星だったらしく肩を揺らして一瞬黙ったおにーさんに、理由を尋ねようとした瞬間頭を掴まれて、今に至る。刹那見えた顔には、酷く弱々しい、『鰐淵雹』らしかぬ表情があった。

 私の軽口を遮っておにーさんが何を言うかと思えば、こんなこと。

「秋緋に、彼女いるって知ってたか」

「…………」

 思わず私は黙りこんでしまった。秋緋ちゃんの彼女。コノヤおねーさんのことか。次に出た言葉は、あくまで私の素直な感想。「知らなかったの?」肯定するかのように頭を掴む手に力が込められ、頭蓋骨が軋む音を立てる。知らなかったんだ。おにーさんは秋緋ちゃんのお兄さんなのに知らなかったんだ。というか痛い痛い痛たたたたた。
 おにーさんは溜まった鬱憤を晴らすように、別の言い方をすれば大事なものを取られて駄々を捏ねる子供のように喚く。いい加減本当に痛くなってきたのでもがいていたら、ものすごい力で階上へと放り投げられた。わぁ、怪力。
 痛む米神を抑えながらまだ階段にいるおにーさんを見下ろすと、茫然自失とした様子で、うわ言のように「あんなキレた秋緋……五年ぶりに見た……」と呟いているところだった。とにもかくにも、彼はそのことで酷く荒れて更に落ち込んでいて、どれくらい荒れているかといえば人の頭を掴んだまま投げ飛ばすくらい、どれくらい落ち込んでいるかといえばどんなに傷ついても膝を屈する事のなさそうな彼が力無く学校の床に膝を付いてしまうくらい。
 察するに、相当酷い喧嘩というか、普段秋緋ちゃんが彼に対し温厚に接している分、怒ると破壊力が半端ないのかもしれない。だけどここは素直に思う、「秋緋ちゃんの忍耐力すごいね」。いや、本当に凄い。
 けれど、普段の印象を全て払拭するくらいに、弟のことになると乱れるこのお兄さん。こちらも別の意味で凄い、決して悪い意味じゃなく、感心した。良くも悪くも、私には出来ないことだから。

 普段は心臓の弱い人なら視線だけで殺せるんじゃないかっていうほど鋭い力を持っている瞳は、光すら宿らない。心なしか目下の隈も濃くなっているような気が。
 発する言葉にすら力の籠らなくなったおにーさんは膝をついたまま項垂れる。背の高い彼がそうすれば私でもその頭頂部を見下ろすことができた。初めて目にする真青な頭の上に、手を置いて何度か上下してみた。するといくらか力を取り戻した双眸が、私を射殺すくらいの鋭さで見上げてくる。少し硬めの青髪に触れたのは初めてだったから、暫くこうしていたいと思ったけど、どうしてだろう。私の口からは自然にこんな言葉が生まれた。

「おにーさんには私がいるじゃん」






***




 その後、私は学校で補修を終えると、すぐさま秋緋ちゃんに連絡を取ることにした。ああ、うん。そういえば今は夏休みで、夏休みに学校にいる訳はただの補修。どうでもいいけど私は理科とか化学がかなり苦手で、今日もアルジリア先生に迷惑をたっぷりかけてきた。多分雹おにーさんが学校にいた理由も同じようなものだろう、だってあの人三年生だし。
 距離的な意味でアルジリア先生を頼ればよかったのかもしれないけど、これ以上迷惑をかけるのは気が引けたし、何より当事者に話を聞いた方が早い。思いの外早い返事が返って来て、近場のファストフード店に集まることになった。ついでなので尋ねる。『今日はコノヤおねーさんに会わないの?』『明日会うからいいんだ、本当は毎日会いたいけど先輩にも都合があるし』……幸せそうで何よりである。


「おにーさんと喧嘩したでしょ」

 店に入って飲み物を貰った直後、前置きもなく本題に入れば、びくりと肩を揺らしストローから唇を放す秋緋ちゃん。反応が一緒なんて流石兄弟。いつも愛想のいい印象を与える隻眼から、ほんの一瞬それが消える。

「大方予想はついてるよ、おにーさんがコノヤおねーさんのこと馬鹿にしたんだよね。それにしてもおにーさんがあんなに凹むなんて、秋緋ちゃん一体どんな罵り方したの?」
「あ……、はは…………」

 冗談交じりに尋ねると、その時のことを思い出しているのか、秋緋ちゃんの唇からはかっさかさに乾いた笑い声が零れた。別に深く追求するつもりはない。だってこれは雹おにーさんと秋緋ちゃん、兄弟の問題で、若干コノヤおねーさんも絡んでるけど、私は完璧な部外者。呼び出すだけ呼び出しておいて何だけど、そこまで深い考えがあってのことじゃない。多分秋緋ちゃんもそれを察していると思う、それでも呼び出しに応じてくれるのが彼のお人好しな所だ。

「……あの時は、俺もちょっと熱くなりすぎた」
「いいんじゃない。大事な人を否定されて怒れるのは、いいことだよきっと」
「紅は……今日、兄貴に会ったんだよね?」
「うん。別人みたいにふぬけてたけど」

 私がありのままを放すと、彼は暫く押し黙る。すると何かを思いつめた表情で、携帯電話を取り出して―――

「謝るの?」
「……」
「悪いのはおにーさんなのに、秋緋ちゃんが謝るのかい?」

 冷たいコーラを啜りながら、続ける。「まぁどうするかは君の自由だけどさ」。先刻も言った通り、別に深く干渉するつもりはない。秋緋ちゃんは私がそんなことを言うと予想もしていなかったのか、左目を大きく見開いた。

「……紅は、兄貴の味方だと思ったよ」
「何で?」
「今日呼んだのだって、兄貴と仲直りしろって言うのかと」
「ま、兄弟中睦まじいに越したことはないけど、家族事情は私の管轄外だよねー」

 私が笑い半分で、やはり軽い調子で言えば、彼は目を背けて一人ごとのように呟く。

「紅ってそういうとこ……意外と、」
「冷たい、でしょ。知ってる」

 秋緋ちゃんは答えなかった。でもここで暗い雰囲気になるのは私的に避けたい展開なので、笑顔は絶やさない。取りあえず笑っておけば何とかなるっていうのが私の持論。尤も、それを嫌うのがどこぞのおにーさんなんだけど。
 さて、ここからはちょっとした私の愚痴みたいなものになる。あくまでみたいなものだから、そこまで酷くないはずだけど、秋緋ちゃんなら聞いてくれるだろうと甘えてみることにした。

「それにしても羨ましいなぁ!」
「……俺が?」
「うーん、秋緋ちゃんも、雹おにーさんも」

 言い方は角を取ったし、言葉と単語と語調はしっかり選んだ。でも私のこの感情をストレートに言い表わすなら、妬ましい。嫉妬。羨み羨望するというよりも、私は秋緋ちゃんやおにーさんを心の底から妬ましいと思い、嫉妬したのだ。

「紅がそんなこと言うの、珍しいね。どうして?」
「私にないものをたくさん持ってるからだよ」

 秋緋ちゃんはよく分からないといった風に首を傾げた。彼らにあって私にないもの。唯一無二。それは二人を見ていればわかった。秋緋ちゃん、彼は大切な人の為なら同じく大切な人に怒り意思をぶつけることができる。雹おにーさんだって形は違えど同じだ、普段は誰に対しても刺々しく不遜な態度を取っていても、大切な弟の為に、あんなに落ち込むことだってできる。誰かの為に怒ったり、泣いたりできる。唯一無二を持っているからこそ。
 私はどちらも、持っていなかった。

「冷たい私に言われるまでもないだろうけど、おにーさんにはきっと秋緋ちゃんしかいないんだよ」
「紅がいるじゃないか」
「私はきっと、“違う”よ」

 雹おにーさんにとって私は取るに足らない存在。私にとってのおにーさんが例えば唯一無二なのだとしても、それをどうすれば証明できるのか手段を知らない。私たちの関係は、他人以上友人未満、きっとこんな感じ。まあ秋緋ちゃんとは親友だからこそこんな話が出来るんだけどね。

「おにーさんのことだから謝るとは思えないけど、早く仲直りできるといいね」
「うん、俺もそう思う……ありがとう、紅」
「いやいや私何もしてないって。ほら、早いとこ仲直りしないとおにーさん寂しくて死んじゃいそうじゃない?」
「もしそうなったらきっとリジーにでも泣きつくんじゃないかな」

 秋緋ちゃんが何気ない顔でそんなことを言うものだから、私は想像してみることにする。アルジリア先生に泣きついているおにーさんが案外容易に思い浮かんでしまったので、私は思わず笑い声を上げてしまった。それにつられて秋緋ちゃんも笑う。
 二人が早く仲直りすればいいと思う反面、私の心はどこか気持ち悪いままで暫く治ることはなかった。





複雑な心境


20101102