ざあざあざあざあ。 篠を突くような雨。そう言い表わすのが的確な、まるで地上に生きる私達を突き殺そうとするくらいの勢いで叩きつける、雨。梅雨の時期なのだから仕方がないと言えばそれまでだ。 雨を受け止めてくれる傘から袖を捲った腕を出してみて、その勢いを確かめる。掌に叩き付けられるようにして降ってきた大粒の雫は、冷たい。傘を差していないと、風邪を引いてしまうだろう。空を仰げば、安物くさい透明なビニール傘越しに白と灰の混ざった雲が絶え間なく雨粒を落としていた。雲の色から連想できる、白兄と灰ちゃんが手を組んだら無駄に陰湿な嫌がらせを仕組んで大雨くらい降らせそうだとか特に意味のないことを考えていた。そんなくだらない考え事をして気を紛らわせていなければ、雨の日は憂鬱になる。本当は雨が好きなのに、雨の日は何故か気だるさを拭えない。特に梅雨の時期はやる気が失せるというか何と言うか。僅かに水が染み込んだ靴の重い足取りで、私は朝の校門を潜った。 玄関先にある傘入れの篭に、ある程度水滴を払い落した傘を預ける。よく考えたら、それが大きな間違いだったと思う。 *** 帰りのホームルームが終わって、クラスメイトはそれぞれ掃除に携わったり、隅に集まって談笑したり、特に何をするでもなく鞄を手にして帰ったり。私は今日掃除が当たっていたので、箒を担いでいた。こんな大雨の日はさっさと帰りたいのに、なんてことは口に出さない。同じ掃除班にはしっかり者の秋緋ちゃんがいるのだ、きっとすぐ終わるはず。 そのはずなのに、どうしてか今現在秋緋ちゃんの姿は見えない。箒で埃を一か所に集めながら当たりを見回すと、教室の出入り口の辺りにその姿はあった。背中越しに、最近見慣れた青色がちらりと覗く。秋緋ちゃんと、そのお兄さんは、何かを話しこんでいるようだった。 「さんきゅな、秋緋」 「いや、いいよ。俺は二つ持ってるから」 「おう。俺は帰るぜ、じゃあな」 雹お兄さんは、秋緋ちゃんから何かを受け取りひらりと手を振って背を向けようとする。その時、そちらを見ていた私と偶然にも目があった。反射的に笑いかけてしまったのだけど、どうやら彼はそれが嫌いなのだろう、不機嫌そうに顔を歪めて完全に背を向けた。初対面から、何度か顔を合わせて噛み合わない会話を繰り広げたことが数度ある。その度、私は逃すことなく彼の機嫌を損ねてきた。一応言っておくが、わざとではない。 まぁ、次に会った時もきっと私は無意識のうちに笑ってしまうと思う。だってそれはもう、私に染みついてしまっている。それを望んだのは私であって、あのひとでもある。 だから、これでいい。例え嫌われてしまっても、構わない。嫌われるのは、慣れている。 「鰐淵、雨宮。掃除をサボったらいつまで経っても帰れないぞ」 まだ扉付近で兄を見送っていた彼と、箒を持ったままぼーっとしていた私は、揃って担任の叱責を受けることとなった。距離があったものの、私たちはお互いに顔を見合わせて苦笑する。秋緋ちゃんがどうかは分からないけど、私と一番仲がいいクラスメイトは彼なのだ。この程度のアイコンタクトはお手の物。 「早く終わらせようか、紅」 「そうだね、雨、もっと酷くなりそうだし」 朝、登校した時よりも、アスファルトの地面に打ち付ける雨の音がよく聞こえる。窓を叩く水滴の音も煩わしいくらいになっている。雨は好きだけど、梅雨は嫌いだ。じめじめした湿気も、止みそうにない雨音を聞いているのも、私の元気的な何かを削ぎ落していく。 梅雨は、嫌いだ。 「……梅雨は、嫌いだ」 無事掃除を終え、秋緋ちゃんとは別れて私はそのまま玄関へと直行した。彼は何やら最近、こいびとというやつが出来たらしく、浮足立っている感は否めないけど、幸せそうで何よりだ。見ていて微笑ましいというか、何かそんな感じ。 いや、とにかく問題はこっちだ。私は今朝、確かに安物のビニール傘を篭に差したはずなのに、そのはずなのに、見当たらない。割と使い込んでいたので持ち手の所に特徴的な疵があって、見間違うはずはないのだけど。これは深く考えるまでもなく、誰かに持っていかれた。故意か間違いかは私には計り知れないところだが、とにかく持っていかれたんだ、私の傘。さようならビニ傘くん、今年の梅雨は君と一緒なら乗り越えられると思ったのになぁ。 自分の傘が無くなったからといって、他の人の傘を盗むのも気が引ける。人を蹴るのは躊躇いが無いのに、もしかしたら私って結構ずれているのかもしれない。こうなったら電車の駅まで全速力で走るしかないな、と思ったその時、丁度玄関前で傘を差した後ろ姿が目に入った。尾を引くのは、青黒の長髪。初めて見た時から相変わらず億劫そうな足取りは、きっと今朝の私にそっくり。 あ、そうだ、いいこと、思いついた。おにーさんと話しながら帰れば、濡れてしまうのも気にならないんじゃないか。 「おにーさんっ!」 ばしゃり。水たまりを踏み鳴らして声を上げれば、「うげ」とでも言いたそうな表情が振り返る。が、即座に前を向くと躊躇いなく歩を進めた。鬱陶しいから関わるなとでも言わんばかりに。ああ、うん、分かってたけど。それでこそ雹おにーさんだよね。追いかけようと後を追って、痛いと思ったら雨は容赦なく私の全身にぶつかって来る。服の上からでも、結構な威力。 雨にも負けず、風にも負けず、私は彼の傍へと駆け寄っていった。 「ああもう、待ってよおにーさん」 「知るか。テメェに構ってる暇なんざねえんだよ」 「うへぁっ」 べしゃ、と音を立てて私の視界は反転、曇り空が遠くなる。雨に打たれて冷えていた身体が更に冷たくなっていった。事態を理解したのは、長身の雹おにーさんが至極呆れた表情で私を高いところから見下ろした時。おにーさんが特別高いわけじゃなくて、私が低いだけ。彼が差している折り畳み傘は確か今日秋緋ちゃんが持っていたやつと同じで、そうか、先刻教室で渡していたのは傘だったのか。なんて現実逃避っぽい思考の横道に逃げてみても、まぁ言ってしまえば、私は滑って転んだ。ずべしゃっと、仰向けに。 じわじわと服に染み込んでいく雨水が不快で起き上がる。特に泥がついているわけでもなく、だけど大分人目を引いた、何せ学校の傍の大きな水たまりで派手に転んだのだから。ここが泥道じゃなくアスファルト舗装が施された道であることが、不幸中の幸い。 うん、面白い面白い。やっぱり楽しいや。 「…お前、よく笑ってられんな」 「だって面白いんだもん」 「びしょ濡れだぞ」 「元々濡れてたし、もう気にならないや。それにさ、」 「…あ?」 「おにーさんと話すの、楽しいもん」 楽しんでいるのは、私だけかもしれない。というよりも普通に私だけだ。水溜りに座り込んだまま笑って見上げれば、彼は面食らったように隈の酷い双眸を見開く。そう言えば彼は私の笑った顔が嫌いなんだっけ、それでもいいや、私は雹おにーさんが好きだから。以前口に出して何度か言ったら、頭大丈夫かみたいなことを言われた。私の基準では十分正常、何故なら私が雹おにーさんを好きだと思っているから。理由なんてそれ以上でもそれ以下でもない、ただ、私個人の勝手な事情。 「馬鹿だな、お前」 「うん、知ってる」 私を見る目は、珍しく不快感が含まれず、まるで不可解なものを見るかのような色が窺える。不可解、不思議、私が? ――― 否定できないというか、そうかもしれないというか。 |
20101020 |