fatalismo | ナノ


 fatalismo――ファタリズモ。イタリア語で運命論。宿命論、宿命観とも。
 この世の人事や現象、一切の出来事は全て運命によってあらかじめ定められおり、人間の意志や選択は無力であるとする考え方




 何かの本に書いてあったソレは、幼い頃の私に染み込んでいくようにごく自然なものだった。運命論。人間の意志や選択は無力。それなら、仕方ない。全ての事象が予め運命とやらによって決められているのなら、私の周囲で起こることもそうなのだろう。だから私が何をしようとしまいと意味はない。それを言い訳にして逃げ道を作った。青いカバーの分厚い本を強く抱き締める。私の言い訳と逃げ道。これがないと、生きていく自信も勇気も何もなくなってしまいそうだった。青い、色に、逃げる。―――馬っ鹿じゃねえの。どこかで聞いた事のある少年の声が、嘲笑うかのように耳元で響いた。
 それが私の背を押し、勇気づけるためのものだと知っていた。―――青い本は発火し、灰になって消えた。




「……おはよーございます」

 目を覚ませばカーテンの開いた窓から容赦なく日光が差し込んできていた。カーテンを開いたのは、無表情のまま私を見下ろしている雨宮灰。私の、従兄だ。
 彼は私が目を開いたのを確認すると、小さく顎を引いて「おはよう紅」と言う。相変わらずの無表情にやる気が失せるけど、カレンダーを見て今日から学校だという事実に気付き大きな欠伸を一つした後、寝台から飛び降り紅い前髪を掻き上げる。学費を払っているのは私じゃなくて灰の親御さんで、私の叔母さんと叔父さん。サボるなんていう選択、端から存在を許されていないのだ。
 壁に掛けられた時計を見て顔を顰める。あまりぼーっとしていると新学期早々遅刻してしまうことになる、せっかく成績は悪くないというのに。クローゼットから、クリーニングに出していた制服を出し、袖を通す。暫く着ていたことによって着心地が悪くなかったはずの制服は、何だか少し固いような気がして違和感。クリーニング屋さんの仕業だろう。
 普段の授業より幾分か軽い鞄を引っ掴み、居間に降りて叔父さんと叔母さんに挨拶。食卓テーブルの上にあった私の分のトーストに、隣にあった目玉焼きを乗せて玄関へ向かう。行儀は悪いけどこれが私の朝の過ごし方だ、電車に乗るまでには丁度良く食べ終わることができる。



***




「……おはよーございます秋緋ちゃん」
「おはよう。よく寝てたね?」

 友人である鰐淵秋緋が、呆れに隻眼を細めながら肩を揺すったことによって、始業式が既に終了していたことに気付く。生徒のざわめきが少し煩わしい。
 学校に来てから始業式が始まるまでの記憶がまるごと抜けている。あまり喜ばしいことではないかもしれないが、割と面倒くさがりである私にとってはとても喜ばしいことだった。だって、実際始業式の記憶とか思い出とか作るだけ無駄じゃないか。

「じゃあ、俺先に行ってるよ」
「目が覚めたら追っかける…」

 周囲を見回せば生徒たちは疎らに体育館を後にする最中だ。彼もその人の流れに紛れこむが、長身と目立つ赤い髪とによって人混みでも見つけやすい。従って、後を追うのも容易い。頭や視界にかかるもやを取り払おうと、両腕を頭上の方へと伸ばしながら大きな欠伸。ついでに爪先立ちになって全身の気だるさともさよならだ。
 若干身体から眠気が取れたので、駆け足になって彼を追う。それぞれ自由に教室へ戻ろうとする生徒の間を縫いながら行けば、簡単に手が届いた。振り返った彼は「早かったね」と笑って、だけど次の瞬間、私から視線を外し驚いたようにその左目を見開いた。

「あれ、兄貴」

 言葉と目線の向けられた方向を見ると、そちらから長身に青い髪の男子生徒が億劫そうに歩いてきた。恐らく、上級生。「おう」と気だるそうな声を上げる彼は秋緋ちゃんよりも背が高いので必然的に私は見上げる形になった。兄貴と呼ばれていることからして秋緋ちゃんの兄であろう彼が、私を見下ろしもしないのは、私の存在に興味が無いか気付かないふりをしているからだ。後ろで結った青黒い長髪が揺れる。正直、二人はあまり似ていない気がした。

「アルジリアから聞いてたけど、ちゃんと出席してくれたみたいだね。よかったよかった」
「……お前があんなに言うからだろ」
「そうだっけ?」

 アハハと笑う秋緋ちゃんを見ていると、大体話がわかった。秋緋ちゃんの兄である彼は本当は始業式に出席したくなかったのに、秋緋ちゃんが頼み込むか何かをして無理矢理出席させた。ちなみにアルジリアと言うのはこの学校の教師で、前から話は聞いていたけど秋緋ちゃんと親しい、というよりも家族のような間柄なのだとか。
 話の流れから、やはりこの青い髪の人は秋緋ちゃんの兄。彼を見ているとどこか引っかかる。どこがだろう。秋緋ちゃんの兄と言う部分、は、違う。じゃあ、どこだ。酷い隈のおまけがついた三白眼、どこか拗ねたようにへの字を描く口元も、真青な髪も、どこかで。どこで?

青い 髪 の、人―――?


「そうだ、紹介するよ、兄貴。同じクラスの紅。友達なんだ」

 不意に、話しこんでいたはずの秋緋ちゃんがこちらに話題を振ってくるものだから、実のところ心臓が飛び跳ねた。それを表情には出さず、代わりにいつも通り、対人用の笑顔を作ってみせた。大抵の時、取りあえず笑っておけば何事もやり過ごせる。所謂処世術。

「雨宮紅です。よろしくおにーさん」

 色々な人がそうするように、私を見下ろしている彼に対し笑顔のまま右手を差し出してみた。握手の合図だ。そのはずなのに返ってくるのは、苛立ち。私を見下ろすその顔、眉間に、皺が何本か増えた。何かが癇に障ったらしい。私を一瞥した彼は何を言うでもなく視線を外し、そのまま踵を返して立ち去った。

「あ、ちょ……兄貴っ!」
「あはは、嫌われちゃったかな」
「……ごめん、紅。その……兄貴は、赤が嫌い、なんだ」

 申し訳なさそうに秋緋ちゃんはそう言う。赤。紅。私のこの髪の色のことだ。色を嫌うなんて、難儀なことだけど。

「いいんじゃないの、私も嫌いだから」

 嫌いなのは、色そのものじゃない。自分の髪の色のみ。だから、秋緋ちゃんの赤い髪は綺麗で好き。他の赤も好き、赤は好きな色。ただ、自分の紅色だけが嫌いだった。これを嫌ってくれる人が、いて、よかったと心の最下層でそう感じる。

「…え…?」
「何も言ってなーいよ。それよりあの人、秋緋ちゃんのお兄さんなんだよね?」
「あ、ああ。鰐淵雹って言ってね、俺の実兄だよ」

 鰐淵雹。口の中で呟いたその名前に、聞き覚えはない。初めて聞く名前だ。なのに、胸が、心臓が痛んで、胸の上できつく拳を握った。あの人の声も容姿も仕草も何も、思い当たる節はないのに、私の記憶の奥底で何かが浮上しようと、チカチカ視界が白んだ。
 大事な記憶。ずっと心の奥に大切に仕舞いこんでいたそれが、きっと、そうなのだろう。その事実を受け入れてしまえば、鰐淵雹という存在は、すとんと私の中のどこかに収まって、落ち着いた。

 そうだ。忘れるはずがない。あのひとは、わたしの、―――― 何より大切な思い出






蘇生した色彩


20101020