colorless | ナノ


直感的苦手




「おはようございます」


 出勤して受付の前を通ると、そこにいる受付のお姉さんはいつも僕にそう挨拶する。僕はそちらを向いて対人用の笑顔を浮かべ「おはようございます」と返す。内側はともかく外面はいいのだ。だけど僕は警備員として此処で働くようになってから一度たりともそのお姉さんの顔をまともに見たことがない。だから彼女がどんな顔をしてどんな名前なのか、ましてやいつから受付嬢として働いているのかも知らなかった。もしかしたら最初からいたのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
 とにかく僕は彼女に対する興味などなくて、だけど毎朝の挨拶は確実に日常として刷り込まれていった。それに慣れつつある自分を嫌悪したりはなかったが、どうして僕に構うのかを不思議に思うことは何度かあった。

 偶に「今日はいい天気ですね」なんて他愛のない話題を振ってくることもあったけど、そういう時は足を止めずに当たり障りのない受け答えをした。これも一つの処世術だろう。
 僕は名も知らぬ彼女を、好きでも嫌いでもない。だから、一度彼女の方を向けば名を知れるのだろうが、それをしなかった。名を知りたいと思うほど興味がなかったからだ。


 だがある日、そんな希薄すぎる関係とも言えない関係が崩れた。
 表面上、仲の良い友達のような付き合いをしている、ゆっちーこと樂郷愉、じゃってぃんことジャスティン・コッパード。彼らとのくだらないやり取りを終え、休憩の終わりに受付の前を通りかかった時のこと。「あの、」という声で警備員の事務室へ向かっていた足が止まる。その時の僕は少なからず機嫌がいいとは言えなかったので、眉間に皺が寄ったかもしれない。けど、その可愛くない顔を晒すのは僕の流儀に反するので、慣れ親しんだ表情筋の動かし方で微笑んでみせる。


「何ですか受付のお姉さん」

「いえ、いつもよりお具合が良くないようでしたので……お友達と喧嘩でもしましたか?」

「まさか」


 僕が、喧嘩なんて。その発想がおかしくて、思わず即答し鼻を鳴らしてしまう。くだらなさすぎて条件反射のように彼女を見た。思い返せば、意図的に受け付けの彼女を視界に入れたのはこれが初めてだったのだろう、ネームプレートには“金森かな”と記されていて漸くその名を知る。
 そして、彼女、金森さんは、僕を真っ直ぐ見ていた。何となく分かる、僕が毎朝そちらを向かない時もいつだって金森さんは僕をその真っ直ぐな目で見ていたのだと。その目を、苦手だと感じた。理由は分からないがそう感じた。


「そう、それならよかった」


 真っ直ぐに僕を見て、微笑んだ彼女を、苦手だと。

 苦虫を噛み潰したような心持で、僕はそれ以上何も言うことが出来ず止めていた足を無理矢理に動かした。感覚はあまりなかった。
 こんなことは初めてでどうしていいか分からない。こうなるくらいなら、金森さんの方を向かなければよかった。その名前を知らないままでいればよかった。彼女の名を知ってしまった代償がこの直感的な“苦手”なら、彼女を見なきゃよかったんだ。
 そう思ってももう遅い。僕はこれから毎朝、金森さんを見なくてもその声を聞くだけで、彼女が僕を真っ直ぐに見ていることを知るのだ。


「桐野くん、お仕事頑張ってくださいね」


 背中から追いかけてくる声。何てことだ、金森さんはきっともうずっと前から僕の名を知っていたに違いない。ああ、何かもやもやする、どうしてただの受付嬢相手にここまで面倒くさい、苦手意識なんか、あーやだやだ。……この後、仕事サボってしまおうかな、なんてね。


fin.
120711.
ちゅとさん宅かなさんお借りしました。そーちゃんがかなさんをかなさんとして認識した日、みたいな