colorless | ナノ


夜を旅する




「うわ、見て雹ちゃんすっごい!」


 汽車を降りるなりぱっと顔を輝かせた彼女がまるで遊園地に初めてやってきた子供のように駆けていく。雹、と呼ばれるも置いていかれる形になった男は、呆れたような半眼で溜息交じりに「迷子になるぞ馬鹿」と、揺れる赤毛に向けて声を投げかける、が、既にあちらは聞いていなかった。早速駅員らしき男性に現地の言語で話しかけている。そのために予習していたのを雹は知っていた、きっと今頃この国の観光地についてでも尋ねているのだろう。
 しかし、と彼は息を吐く。別に観光地でなくとも、この国は見所がありすぎて困るくらいだ。祖国にいる弟に見せてやりたいな、と思えば自然と切れ長の目が細められ口元が緩んだ。いつの間にか目前へやってきてその顔を覗き込んでいる彼女にも気付かぬまま。


「………雹ちゃん、なににやけてるの?」

「……うるせ、クソ赤毛」

「あははは、どうせ秋緋ちゃんのことでも考えてたんでしょー!」


 思い切り顔を顰めて悪態を吐くも、全く動じずにころころと笑って見せる彼女は、昔から何も変わっていない。眉間を狭くした雹であるが、自分の意識しない根底ではそれを好ましくも思っている。何より図星だったのでそれ以上は言い返せず、足早に歩き出す。彼女は何が楽しいのかふふっと笑って彼の後ろに続いた。
 彼女は、紅は、いつもそうだ。何を好きこのんでか自分の後ろについてくる。それが雹には理解し難かったが、救われることも少なくない。最初の頃はあんなにも敬遠していたのに、と過去を思い出すも、結局のところ絆されたのはこちらだったと改めて自覚し苦笑した。後ろの紅に気付かれぬように。気付かれたら、またからかわれるに決まっているからだ。




 ぱしゃぱしゃと街並みの写真を何枚か撮りつつ、雹は初めて訪れた国の光景に見惚れたりなどしている。視界でちょろちょろと動き回る赤に目をやれば、紅はいつの間にやら雹を追い越して先を行っていた。よくあることなので気にしない。
 時折道行く人に話しかけては他愛のない話をしているようだが、全く器用な奴だと雹は思う。見かけはいくらか成長しているが、何歳になってもその人懐こそうな雰囲気が変わることはないのだろう。

 偶に雹を振り向いて手を振ってくる時の笑顔は、あの頃と比べれば好感の持てるものになった。どのような心境の変化があったかは彼のみぞ知る。
 いつもいつでも彼の後ろをついて歩く彼女だが、果たして後をついて歩いているのはどちらなのか。雹には分からないが、それでもいいと考えている。元より難しいことを考えるのは苦手だし嫌いなのだ。

 ふと紅の方へ目をやると、美しい街並みを背にして、のろのろと歩んでいた雹が追いつくのを待っているようであった。ほぼ無意識のうちに、雹はカメラを構えてシャッターを切る。液晶画面には紅の笑みと綺麗な風景とが収まっていて、彼はふっと息を逃がすようにして笑うと少し足を速めて彼女の元へ向かう。
 よもや自身が被写体になっていることなど気付いていない紅は、何を急いているのか雹の手をしっかり握ると引っ張るようにして歩を進めていく。


「急いでんのか」

「んーん、もっと色んな景色見たいなら今のうちに見ておこうと思って。あとホテルも取らないと……夜になったらまた違うんでしょう?」

「そりゃあな、夜景だし」

「いい写真撮れた?」

「………ま、それなりに」


 紅に手を引かれるがままだった雹は手に収まるほどの笑顔から視線を上げると、今度は自身がその手を掴んで引いて行く。元から背丈の高い彼がその気になれば、歩幅など彼女とは比べられないものであり、紅は足を縺れさせながらも何とか転ばずに歩みを整える。


「わ、っちょ……雹ちゃん?」

「ホテルなんて後でいいだろ」

「まぁ君がそう言うなら……」

「だったら黙ってついてきやがれ、紅」

「 、もっちろん!」


 今日の中で一番嬉しそうに笑った紅が大きく頷く。そんな笑顔を見る度に、偶には人間を被写体にするのも悪くないかと思うのだ。今まで訪れた国で収めた写真の中には必ず一枚、紅が写っていることを本人が知ることになるのは一体いつなのだろうか。

 雹はくつくつと喉を鳴らして笑うと、強くその手を握り直して歩を進める。既に日が暮れかけていて、橙色が目に眩しい。これからもずっと、二人で数千夜を越えていくのだ。いつか、まだ幼い頃、飽き飽きとする世界だと空虚に感じる日が確かにあった。だけど彼女と一緒なら、それも悪くないような気がした。


120508.
ダイチ様宅雹くんと二周年。二人が二十代半ばくらいの時の話、街並みの美しい国にて。これからもずっとずっと、末長く、よろしくお願いします。
Title by 星葬