colorless | ナノ


運命共同体




 あやめは静かに自分の両手を見下ろす。酷いな、とまるで他人事のような感想が真っ先に生まれた。じりじりと焙られるような痛みよりも、皮膚の下が疼くような心地悪さよりも、酷く焼け爛れた掌を、どうやって隠そうかとそちらへばかり意識をやる。痛みは気にしなければ気にならない、だから彼女は気にしなかった。
 そこらに散らばった紙切れを指先で拾い集め懐に仕舞い、ぞんざいに放ってあった抜き身の刀をぱちんと音を鳴らして鞘に収める。柄に触れた掌が擦れて、思わず顔を顰めた。自分でもそれを気付き、彼女はぺろりと舌を出して肩を竦めた。

 痛みには慣れない。長く生きても痛覚が衰えることはなかった。それ以前に、彼女が、衰えることはなかった。それを呪いだとあやめは笑う。誰もその真意を知り得なかったが、あやめが面白可笑しく嘯くのはいつものことだった。


 しかしどうしたものかとあやめは曇天を仰ぎながら比較的傷の浅い指先をぺろりと舐めた。血の味がする。ちょっとした術の鍛錬のつもりが、いつの間にか熱中してしまってこの様だ。
 今にも雨が降ってきそうな空。重く垂れこむ暗雲。冷たい風が、程良く彼女の華奢な手を傷めつけた。今度は顔を顰めず、笑うことが出来た。


 ぽつり。頬に落ちる雫。戻る間もなく雨が降って来たようだ。降って来る雨が全部飴なら面白いのにな、とくだらないことを考えてあやめは微笑む。それからもし雨が強酸だったら自分は溶けて無くなるかな、などということも考えた。
 どれもこれもくだらない考え事だったが、色々考えているうちに黒髪は額や頬に張り付き、衣は水分を充分に吸い込んで重たくなっていた。



「気は済みましたか?」


 唐突に肩や頭を打つ雨が途絶える。が、雨音が消えたわけではなく、ただ傘という文化的な道具に遮られただけであった。無論あやめがそんなものを都合よく持っていたなどということはない。振り返ると其処には、呆れかえった表情の青年がいた。


「おや、まぁ。蘭くんじゃないですか」


 蘭と呼ばれた彼は、頭頂部の耳を僅かに揺らし、あやめの微笑の中に動揺を感じ取る。それは腹の内を見せない互いにとって非常に珍しいことであり、蘭は無意識のうちに眉を寄せた。それでも口元は弧を描く。二人はどこかよく似ているのだ。


「貴女ともあろう人が、気配に気付かないだなんて、らしくない」

「…………なるほど。割と最初の方からいた、と。それなら声をかけてくれればよかったのに」

「あまりに真剣そうでしたので」


 くすりとも笑わずに彼はそう言った。普段であれば、いくらかの皮肉を込めた言葉であったのかもしれないが、今回は違った。言葉の通りの意味だった。
 敏くそれを察したあやめも、参ったとばかりに溜息を吐く。似ているからこそ、通じ合うものがあるらしい。


「全く、努力というものは人知れず積み重ねてこそ、なのに」

「それは悪いことをしましたね」

「思っても無いことを言わないでくださいよ、蘭くん。……まぁ、構いません」


 番傘の下から躊躇いも無く歩き出すあやめに、また呆れを覚えつつ蘭もついていく。何故だか彼女の背はいつも以上にうすっぺらく、頼り無く見えた。雨に打たれて濡れ鼠になったからだろうか。上手い言葉が見つからず、彼は口を噤む。それを気付いているのかいないのか、あやめは足取りと同じように軽い口を開いた。


「強くなければいけませんよ、人も、式神も。じゃないと守れないものもある。何よりも、裏切られることになるんです」


 それが、何を指すのか、蘭は知らない。二人は必要以上に互いのことを話したりしない。もしかしたらその台詞に意味などないかもしれない、彼女の言動であれば充分に有り得る可能性の中の一つである。

 でも、と。足を止めることもせず、何でも無いように続けたあやめのそれを、彼はどう受け止めるべきか惑わずにはいられない。


「ぼくは、君を信じたから、もう裏切られることはありませんね」


「そうですね。俺たちは、言わば運命共同体ですから」


 蘭が憮然として答えれば、あやめはやっと振り返って、くすりと小さく笑った。常日頃から湛えるそれとは違い、本当に自然と零れた微笑だった。どこに笑う要素があったのか、思い返しても分からない彼がきょとんと首を傾げる。
 元より優しい性格と言い難いあやめは、そんな彼に、意地の悪い答えを与えた。



「そうじゃありません。……ぼくはもう、蘭くんを信じてしまいました。だから、」



 そこから先は、降り始めより強くなった雨音に掻き消されて聞き取れなかった。

 もう一度聞き返そうと彼は口を開きかけるが、途中で止めた。何故なら、彼女が素直に同じことをもう一度言うとは思えなかったからだ。無駄なことをするのはあまり好きではない。蘭は九本の尾をゆらりと揺らして、あやめの隣を歩きながら傘を打つ雨の音を聞くことに集中した。取りあえず戻ったら、また裸足で出かけたことに対する説教と、それから本人は巧妙に隠しているつもりらしい両手の怪我の手当てを同時進行だ。
 溜息を吐き出しつつも、蘭の口元は僅かに緩んでいる。


(君が僕を裏切ったとしても、僕にはそれが分からないんです)
fin.
120317.
壱葉様宅蘭くんお借りしました、あやめ謎すぎて…でも割とガチで蘭くんのことは信頼してるそうです。そうは見えないけど。見えないけど。