colorless | ナノ


残酷ニーズ



  ゆらりゆらり、幽鬼のように青年は歩く。その都度、踏みつけた木の根がみしりと悲鳴を上げ、ぬかるんだ地面は深く沈んだ。どうやら自身の身体を上手く制御出来ていないらしい。彼の周囲は景色が歪んで見えた。それらの歪みも自重の不制御も全て、青年の感情の揺らぎによるもの。彼は酷く不安定な精神を持っていた。きつく食い縛った葉は全て尖っている。ぶらりと垂れ下がった左手の爪は刃物のように鋭い。人の姿を模っても尚人間離れした双眸はぎらぎらと獰猛な爬虫類の眼光。月の光を照り返す白銀の髪は、意志を持つ生物のように揺らめいた。

 ぽたり、滴り落ちる深紅。その牙から、爪先から、外套から、ぽたりぽたりぼたりぼとぼと、真赤な液体や固体が滴った。
 抑えきれない激情で、彼は、ジークは、数えきれない数の人間を喰い殺した。一度その感情が爆発すれば、後は目に留まるもの全てを破壊し尽くし、自分以外の動くものを消し去るまで止まらない。つい先刻の出来事だ。

「あぁ、ぁぁあああぁ、あぁぁああァァァアアアアアアアアああああァァアア!!!」

 高らかな咆哮に、驚き色めき立った鳥たちがばさばさと夜空へ舞い上がる。町を焼き尽くし人々を喰い殺しても尚収まらない激情、苛立ち、憎しみ恨み。それら全てを発散させようとした慟哭は、どこか悲しみを伴っているようにも聞こえた。無論叫んだだけでそれらが霧散するはずもなく、ジークはやり場の無い怒りをどこにぶつけるべきかと目を光らせる。今動くものを目にすれば音の速さで其れの息の根を止めることなど容易い。歯列の間から漏れる呼吸音は荒く、血走った眼は大きく見開かれている。その目に、何かが映ったような気がした。

 がさり。

 風の音ではない、葉と葉が擦れあう音。ぐるんと首を捻ったジークは反射的に地面を蹴る。鈍い音がして踏み込んだ地面が抉れた。
 今の彼は本能に従う獣である。殺せ。壊せ。殺せ。心を支配するのはそれだけ。殺せ。殺せ、殺せ殺せ殺せコロセ殺せ。振り上げた左腕、刃物のように長く鋭い爪がぎらりと光る。

 真赤に染まった視界の中、過る白。二つの赤。無垢な光。一抹の理性がそれらを解し全身の筋肉に指令を送る。止まれ。




「お、ま………きみ、は」


 紅玉の瞳の眼前に迫り、しかしぴたりと止まった凶器の先端。その深紅の持ち主は、瞬き一つせず、また怯えた様子も見せず、ジークを見上げた。角子だった。
 白い頬を、彼の指先や服から飛び散った赤の飛沫が汚す。ジークは力尽きたようにその場でがくりと膝をつき、薄い肩に手を置く。乾き切らない、乾き切りそうもない量の血が、真赤にその肩を濡らした。


「つの、こ、……アンジェリカ。アン、ジェリカ……アンジェ、ッあぁあああ!!」


 ジークは幼い子供のように喚く。鼓膜を劈くようなその声に、やはり角子は反応を見せない。肩から首を伝って彼の左手が頬へ到達する。べちゃり、ぬちゃり、粘着質な音を立てて、飛沫で汚れていた頬を更に赤く汚していく。真白な少女は、段々と赤に侵されていった。

 月光を映す双眸は、鮮血と似た彩りを浮かび上がらせる。自我を持たぬはずの角子は、桜色の小さな唇で、か細く声を発した。


「   」


 その鈴の音のような響きを耳にしたのはジークただ一人だけ。彼は唯一の左腕で、角子を掻き抱いた。どんなに強い力でそうしても、苦しいと不満を訴える声は無い。
 ただ、ジークと同じように真赤に汚れた小さな手が、そっと彼の背を撫でた。その温もりに、彼はやっと嗚咽を零す。喉が戦慄くままに段々と多くなる泣き声と共に溢れる涙は、ヒトと同じ無色透明。人肌の温かさを持つ雫が、少女の肩を濡らしていく。


「ねえアンジェリカ、僕はやっぱりヒトが憎いよ憎くて憎くてたまらない、君は見たことがあるかな、あいつらは死ぬ間際とても醜い顔で僕に命を乞うんだ助けてください死にたくない見逃してくれって、とっても醜い、汚い、僕はそんなあいつらが大嫌いで仕方がないよアンジェリカ、だけど君は綺麗だね僕と同じ白い色、世界中のヒトが君みたいに純粋で無垢だったら僕は誰も憎まずにいられたのかな、そうだとしたら皮肉だよだって世界は真白な君を受け入れないし僕をも排除しようとしているだろう、ねえ、聞いているかいアンジェリカ、僕は、私は……この世界が、大嫌いだ」


 白銀が吐き出す憎悪と嗚咽に、純白からの答えは終ぞ返ってこない。



 



fin.
120208.
竜鳴き。
Title by ギリア