colorless | ナノ


爪先の地獄



  膝から力が抜けるまま、ニコラは大地にへたりこんだ。何かを言おうとしても喉からはひゅうひゅうと掠れた呼気しか出てこない。ひくり、喉が震えた。一体何を言おうとしているのだろう、何を言えばいいのだろう、違う、誰かに言ってほしかった。こんなものは嘘だと、違うのだと、否定してほしかった。

 視線の先、純白の羽を背負った背中が、紫暗の揺れる髪が、あの男のものではないのだと。全てを否定して視覚を遮断してしまいたいのに、どうしてか目を逸らすことができない。まるで魅入られたかのように、ニコラは鮮やかなマゼンタの瞳を見開いたままでいた。
 ひらり、白い羽が目の前に舞い落ちてくる。心臓の音が煩い。うるさい。今すぐ止まってしまえばいいのにと、ニコラは口元で歪な弧を描いた。


 そんな彼を振り返った天使。髪と同じ色の瞳が、ふわりと揺れる髪の間から覗く。真っ直ぐとニコラを見詰めていて、表情は全くの無。だがその無表情の下で、彼は、セラは確かに、ニコラの絶望を感じ取っていた。
 分かっている。彼に絶望の種を植え付けたのは自分だと。
 分かっている。一度ならず二度までも、希望という名の絶望を与えたのは他でもない自分なのだと。

 分かっている。希望を知った後の絶望の先は、比較できるものがないほどの地獄だということを。

 手を差し伸べるべきかと逡巡する。ニコラがその手を取ってくれるかどうか、判断に迷うから。セラの口が開きかけ、しかし閉じたのを見て、ニコラはやっと喉の奥から声を絞り出した。


「そう、だったんだ、へぇ、……あんたが、俺を、……おれ、の」


 泣きそうに震えた声だった、だけどニコラは涙など浮かべていないし、乾ききった唇は歪んでいた。いつ壊れてしまうとも分からない心の軋む音が、聞こえたような気がする。

 見開かれたその目は、彼から直々の否定を望んでいるように見えた。実際そうなのだろう、だがセラはその否定を与えてやることは出来ない。
 死を望んだニコラに強すぎる生を与えたのは確かにセラで、それでも尚強く死を望む彼に手を差し伸べたのもセラなのだ。その事実を否定出来ない。否定などしたくなかったのだ、それがどんなにニコラを傷つけぼろぼろにする所業であっても。

 とんだエゴイストだ、セラも自然と口の端が釣り上がる。自嘲の笑みだった。


「ああそうだ、俺だよ。お前を無理矢理生かしたのもお前の愛を受け取ったのも全部、俺だ」


 半笑いでの肯定の言葉。ついにニコラは俯いた。
 唇からは乾ききった哄笑が勝手に零れてくる、まるで泣いているかのようにも聞こえるそれを自分の意思で止めることは出来ず、ニコラは両手で自身の顔を覆い隠した。指の間にある前髪をぐしゃりと握った。無理矢理に呼吸を止めてみた。
 このまま死んでしまえたらいいのにと、どんなに願っても望んでも、それは叶わない。

 何故なら目の前に、この男がいるからだ。


「ちゃんと、息しろ、俺がいるだろ。なぁ」


 両腕が伸びてきてニコラは包まれる。自分の意思で止めていたはずの呼吸が再開された。彼の元でだけ息が出来るなんて、陳腐な言い回しでしかないけれど、もしかしたら実際にそうなのかもしれない。
 くつくつとまた哄笑が上がった。


「俺は、あんたを憎むよ、天使サマ」


「上等だ、いくらでも憎め。そして」



  生きろ。


 似合わない天使の羽と柄じゃない言葉。それらを見て聞いて、全てが馬鹿らしく思えた。ニコラはゆっくりと目を閉じる。目を閉じても悪夢、開いても地獄。だったらその地獄の先にいる天使様に、精々縋ってやろうではないか。
 ニコラは背に回した指先で爪を立てるが、天使はと言えば痛みに呻くこともせず力無く笑ってみせるだけだった。反吐が出るほどの優しさに、彼はぺろりと舌を出して嘲った。


 



fin.
120109.
ちゅとさん宅ニコラさんお借りしてIfcpでした!何か色々さーせん!
Title by 水葬