colorless | ナノ


後ろ髪引く





 俺はあの人の後姿を見ることが多い。意図したわけではなく偶然だ、偶然なのだけど、あの綺麗な黒い髪が揺れてどこか遠くへ向かうのを、俺はよく見かける。追おうと足が動いても、結局実行に移されることはないのは、理由がないからだろう。
 追いかけてそれから、どうしようというのだ。どうしようもない。

 けどある時考えが変わった。これにも理由は無いのだけど、何となく、こう思う。俺が追いかけたいから追いかける、これだけで理由は十分なのではないか、と。
 そうとなれば話は早かった、廊下で見かけるあの長い後ろ髪は視界に入ればよく目立つ。
だから後は、追いかけて、呼びとめて、俺の姿をそのめに映してしまえばいい。

 それから、話をすればいいんだ。
 他愛ないことでも、何でも、いい。まずはそう、心を掴むには胃袋からとはよく言ったものである。
 振り向くと、真黒な髪が艶やかに揺れた。舌が縺れそうになるのは、見惚れていたからだなんて、口が裂けても言わない。


「白百合さん、明日のおかず、まだ希望を聞いてませんよ」

「………和食。出汁巻き卵がいい」

「分かりました、重箱三段でいいんですよね」

「ええ」

「………白百合さん、あの、」

「何?」

「……いえ、何でもないです」


 俺の料理くらいで彼女が少しでも振り向いてくれるなら、安いものだ。

 けど先刻は、俺が呼びかけたら、振り向いてくれた。――今ならいつも以上に美味い料理を作れるような気がする。こんな気分も、悪くないかもしれない。




***




「え、好きな奴出来たってマジか燈真お前マジか赤飯どこだ」


 電波の向こうでがたがたと兄さんが忙しなく動き回る音がして、挙句の果てには祖母がいるであろう方向へ「赤飯炊いてくれよ祖母ちゃん」などと声を張っている、毎度毎度思うのだが兄は馬鹿だ。そして阿呆だ。俺は止めても止まらないだろうことを知っているので溜息をひとつ。兄さんの馬鹿。


「で、どんな人だよ、あの天下の無愛想くんが好きになったのは、美人? 可愛い系? もしかして男だったり?」


 未だがたがたがさがさと煩く音を立てる兄さんが、どこか声を弾ませながらそう尋ねてくるので僕は彼女の姿を思い浮かべる。白い肌と黒い髪、同じ色の瞳は冷たくて、無表情、可愛いというよりは綺麗な人だ。


「綺麗な人。俺に負けず劣らず無愛想かもしれないけど……俺の作った弁当、美味しそうに食べてくれるんだ。ちなみに女性だよ」

「へー、そっか、いやー兄ちゃん安心したわ、お前が幸せそうで」

「そう思う?」

「ああ思うね、お前が幸せなら相手も幸せにしてやれよ、そんじゃあ俺赤飯炊かなきゃいけないから切るわ、じゃあな」


 プッ、と小さな音を立てて電波が途切れる。そういえば唐突に電話をかけてきたのは兄さんの方からで、俺は何となくその話をしただけ。別に間違っても恋愛相談とかで電話をしたわけじゃない、そこまで女々しくないんだ俺は。
 勝手に電話をかけてきて、いきなり電話切って、本当に忙しないというか賑やかな兄さんだ。兄さんが赤飯を炊いてどうするっていうんだろう、俺は離れた所に住んでるから食べられないのに。やっぱり馬鹿か、馬鹿なんだろう。頭は悪くないはず、だと信じたい弟の心はどうか察してほしい。


 でも、そうだなあ、俺も、赤飯炊こうかな。何なら明日白百合さんに持っていく弁当のご飯は、赤飯にしようか。きっとあの人なら、理由も聞かないで食べてくれるのではないだろうか。きっとそうだ。

 そうとなれば、早速材料を買ってこよう。


111111.
じじさん宅白百合ちゃんお借りしました!!赤飯炊くしかないなって中の人が思った