泡立たぬ心
目が痛い、腫れている。何をする気も起きない。今日は休日で、特にやるべきこともないがずっと寝ているとそれだけでもだるいので、何となく起きて居間に向かった。司はもうあたしよりずっと早起きして、台所に立っている。今何時だろう、あれ、今日あたし食事当番だったような気がする。
考えるのも面倒で、そこらの床にぺたりと座りこむ。明後日、学校行って、もし蔵ちゃんに会ったらどんな顔すればいいんだろう。怒るっていうのも違う、あたしが勝手に起こったって何のこっちゃってなるし、泣くのもない、もう昨日充分泣いた。じゃあ、いつも通りにすればいいの。そんな器用なこと、できるの。
あたしは明るいってよく言われるけど、笑いたくて笑ってるわけじゃ、ないのに。
駄目だ考えれば考えるほどネガティブになっていく、せっかく起きてきたけど二度寝でもしようかな、もう一回思い切り寝て、頭の中リセットしたら、明後日はきっと笑って学校に行ける、いつも通り蔵ちゃんに笑いかけることもできる、いつも通りの事なんだから簡単に決まってる。
「……翼」
頭の上から降ってきたあたしと同じ声。司がいつの間にかそこにいて、あたしを見下ろしていた。なあに、と顔を上げずに項垂れたまま返事をすると。
「姿勢、悪いよ」
「……!」
厳しい声音でそう言われた。すると条件反射とでも言うべきか、あたしの背筋に針金でも通ったみたいにしゃきっと姿勢が正される。足もしっかり折り畳まれた。
そうだ、幼い頃からあたし達はお互いにこうして姿勢を注意しあったりしてたっけ、背筋が曲がってたりしたらお母さんに怒られてしまうから。だから、お母さんに怒られる前にあたしが司の、司があたしの姿勢を正させるのが常だった。この年になれば、もうほとんど注意する必要がなくなってくるんだけど。
司はくすりと笑って、あたしの前にきちんと正座すると、茶碗を差し出した。湯気の立つそれにはいい香りのする濃茶が揺れている。
この、幼い頃から慣れ親しんだ匂いが、あたしの心を落ち着かせてくれる。身体に染みついた作法で、茶碗を手の上に乗せ、一礼。司の優しい視線を感じながら茶碗を回して、口に含むと、お母さんの点ててくれるお茶と同じ味がして、胸が温かくなった。
今のあたしじゃあきっとこんなお茶は出せないよね、こんなに乱れた心のままじゃいけない。お母さんに教えられたことをもう一度、ちゃんと、胸の内に留めておかなければ。
茶は服のよきように点て、炭は湯の沸くように置き、冬は暖かく夏は涼しく、花は野にあるように入れ、刻限は早めに、降らずとも雨具の用意 相客に心せよ。
つまり、心をこめて、本質を見極め、季節感を大切にし、いのちを尊び、ゆとりをもち、やわらかい心を持ち、たがいに尊重しあうこと。小さい頃から、司と二人で習ってきたじゃないか。
ノイズがかかったように落ち付かなかった心は、嘘みたいに静寂を取り戻した。一口、飲み終えると、司は控えめな微笑を浮かべてあたしに尋ねる。
「お服加減は如何ですか?」
あたしは作法と形式、それ以上の気持ちを込めて、問いかけに答えた。
「大変結構です」
そう答えた時にはもう、あたしは自然に笑っていて、ああやっぱり司はあたしの片割れなんだなあと感じる。そうでなければ、こんな風にしてあたしの平静を取り戻させてくれるなんてこと簡単にできない。
何にしてももう平気だって、そう言える。いいの、あの人に何とも思われてなくても、好きな女の子がいても、あたしが勝手に気にして勝手に好きになったんだから、これからも勝手にその気持ちを持ち続けていれば問題ない。
fin.
111003.
AFRO様宅蔵之介くんのお名前お借りしました。sssの双子のその後。実は茶道家な双子なので和の心を取り戻すと強いらしいです。