colorless | ナノ


灰色の過去




 低い視線。狭い視界。ころころと変わっていく景色。



「しろにい!」



 小さなおれはまだ無邪気な笑顔を浮かべていた。そう、俺はこの結末を知っている。知っているのに何故改めて見せつけられなければいけないのだろう。知っているのに、これが夢だと知っているのに。頼む、やめろ、やめろ、やめろやめてくれ振り向くな白兄。"俺"の声無き静止が届くはずもなく、白兄は今も昔も変わらぬたおやかな笑みを称えて後ろから駆け寄る俺へと振り向いた。ああ、やっぱり今回も駄目だった。
 これも知っていたはずなのに。過去に起こった事は何があっても変える事ができない、って。


ガシャン


 振り向いた白兄はぴくりと僅かに眉を震わせ、普段の彼にしては珍しく声を大にして俺に止まるように言う。しかし"おれ"は気にせず進む。走る。直前に起こった大きな音をやっと近場のものだと認識して、立ち止まれば既に時は遅く。
 おれの頭上に雨のように降り注ぐきらきらしたまるで宝石みたいな何か。それが本当に宝石だったりしたら俺や白兄が全部頂いて売り捌いて大儲け、って感じになったろうけど残念ながら現実にそんな美味しい事態があるはずもなく、むしろおれにとってしたら不味すぎる状況だった。何せ降り注いでいるのは宝石なんかではなくきらきらした、硝子の破片なのだから。小さなおれは『きれいだなぁ』なんて、場違いにもほどがある事を考えていた。まぁ、こどもなんてそんなものか。



 ざくざくだかぐさぐさだか、擬音語では表しきれないような嫌な音が耳に残った。痛くて痛くてぐっと目を瞑った。呼吸をすれば激痛が身体を襲うのではないかと恐れて固く唇を噛んだ。ぼたぼたびちゃびちゃとまた嫌な音がしたので耳を塞ぎたかったが動くのも怖くて両手を拳にし服を握り締めた。




「大丈夫か、灰?」



 とてもあんしんするこえをきいたのでおそるおそるめをひらけば。

 そこにあったのは俺の部屋の天井だった。




***



 くらくらするのは朝だからであって貧血とかそんなのではない。定まらない視界の中に飛び込んできたのは、朝日よりも明るい紅色。

「おはよー灰ちゃん!朝から元気ないねぇ」
「朝だからこそだろ…おはよう」

 朝から元気すぎる紅を適当にいなして食パンとジャムを受け取る。まだ働ききらない頭と体とではジャムの瓶の蓋を開ける事すらままならず、それに気づいた紅が俺の手から瓶とパンとを引っ手繰っていった。身内にだけお節介焼きなのもこういう時は結構役に立つ。それをよしとして、俺は少しでも目を覚ますために顔を洗いに行くことにした。

 冷水を顔にぶっかけて半分ほど意識が覚醒して、食卓に戻れば、あー紅に任せるべきじゃなかったと思った。食パンにたっぷり乗せられた苺ジャムが先刻の夢の一場面を彷彿とさせ、俺は思わず顔を顰めた。無論彼女に悪意があるわけでもないし、普段の俺なら普通に食ってただろうし、これは誰が悪いわけでもない。強いて言うなら俺、だろう。

「……灰ちゃん?」
「あーうん、何でもないよ」

 無駄に鋭い紅の訝しげな視線を無視し、俺は半ば自棄になって苺ジャムパンを口に運ぶ。甘酸っぱい煮詰めた苺特有の味が広がり、安心した。
 当然と言えばそうだけど、鉄の臭いなんて欠片もしなかったから。





***




「大丈夫か、灰?」

 ざくざくぐさぐさぼたぼたびちゃびちゃ、痛み、痛み、激痛、赤。それら全てが自分のものだと取り違えてしまったのは、やはりこどもの感受性故なのだろうか。

 おれの目の前で、白兄は真赤に染まっていた。真っ白な髪、真っ白な服、真っ白な肌。それらがじわじわと赤に浸食されていって、後から分かったんだけど、あの時白兄が両腕で自分とおれを庇わなかったら色々と危なかったらしい。
 無論当時のおれは何が何だかわからず、とにかくおれのせいで綺麗だった白兄が赤くなっていってるんだということだけが理解できて、胸の奥、腹の底から熱いものがこみ上げて来て目頭がぼうっとなった。噛み締め過ぎて感覚の無くなった唇を開き、ひゅうっと掠れた息を吸い込んで、吐き出す時は大きな泣き声と一緒に、とでも考えたのだけど。

「よく泣かなかったな。ご褒美だ」

 途端に広がる甘い味。ご褒美、っていうのは、小さな俺によく白兄がくれた、飴玉。特に棒のついた飴が昔から大好きだったんだ。それをおれに与えて、彼は俺の頭をよしよしと撫でる。傷だらけの手と腕で。大きな傷が出来た顔でいつもと同じように笑って見せて。その時出来た傷のいくつかは十年以上経った今でも消えずに残っている。誰の所為かって?もちろん俺の所為さ。

「しろに、い……」
「いい。気にするな、大丈夫だから」
「おれ……おれ…っ!」
「大丈夫だと言ってる、いいから黙って飴でも食べてろ」

 そう言って、今にも泣きそうなおれの頭を撫でる白兄。穏やかな笑みがおれの心を落ち着かせる。そして、穏やかな笑みが俺の心をざわめかせる。凄く安心できる。凄くこわい。何で?何でだったっけ。




 あれ、ええと、だっておかしいんだ。
 白兄の笑った顔、今も昔も全く変わっていないような気がするだなんておかしすぎるだろ。あー………これは、俺の夢だからだよ、な?だから記憶や夢全体に灰色の靄がかかって、綺麗に思いだす事が出来ない。きっとただそれだけの理由、なんだ。



fin.
10.0505.
灰の過去話。白兄は謎の人物。