colorless | ナノ


記憶喪失的




 それは、雪野なつがまだBACKの軍学生として軍学校に籍を置いていた頃の話。卒業を約一年後に控えているのにも関わらず、未だ進路は決まらない。そんな時のことだ、同じ軍学校を卒業し、現在は特殊・特務機関第二軍に所属している甲弩忠誠に、「結合部隊の海軍に入ってみたらどうだ」と勧められたのは。
 結合部隊海軍。一年の内半年ほど海上で過ごし、海の平和を守る。陸を恋しく思う事もありそうだが、彼女はあまり深く考えず首を縦に振る。自分で考えたところで答えは出ない。それに普段からあまり多くを語らない忠誠が進言したのだから、断る理由もそこにはなかった。

 その数日後、なつは実習生として、一日だけ海軍の艦艇に乗り込むこととなる。

 青い海の上に浮かぶ結合部隊海軍が所持している軍艦、しかも先日まで航海していたという、海軍の重役も乗り合わせる主要艦体だ。
 実習といってもちょっとした体験入隊のようなもので、そのほとんどが艦内の見学に費やされる。思った以上にその艦艇は広く大きく、なつは改めてBACKという組織の大きさを実感した。数十人いる軍学生の中のひとりとして、彼女は先導する海兵である青年の後をついて歩いた。
 甲板、操舵室、食堂、仮眠室、それから訓練場。艦内の機密事項以外であろう部分を全て見終わったところで、辿り着いた訓練場で、正に実習訓練をすることになった。海兵が実際に行っている訓練を、軍学生が行う。その貴重な体験に実習生たちは浮足立って、蜘蛛の子を散らすように思い思いの場所へ散っていく。海軍の一般兵が相手をしてくれるというのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。

 ただやはりというべきか、なつはぽつりとその場に残って立ち尽くす。やがて目についたのは、ゴム弾を込められるようになっている訓練用の拳銃と、そこから15mほど離れた位置にある人型の的。吸い寄せられるようになつはそちらへと歩を進めた。
 触れた訓練用の銃は、金属質で冷たい。彼女は実弾演習をこなしたこともあるのだが、それと同じくらいに冷ややかで。怪我はするだろうけれど、命を奪うことはない拳銃。それがどうにも不思議で、グリップを握ってみても、本物と大差はないのに。

「興味があるんですか」

 声をかけてきたのは、先刻まで軍学生を率いていた海兵の青年。眼鏡の奥の双眸と目が合ってしまって、なつは即座に目を逸らし手にしていた銃を置いた。

「……、すみません、勝手に」
「いや、構いませんよ。今日実習生に訓練場を使わせるのも、大将が決めたことなんです」
「大、将………」
「ええ。いずれ貴女の上司になるかもしれない方です」

 大将、という人のことを、なつは何も知らない。ただ、名前だけを知っている。レフ・スディバー海軍大将。若くして海軍の頂点に上り詰めた男。だが未だこの実習で、顔を合わせたことは一度もなかった。海兵曰く、本当は今日を楽しみにしていたのだけど執務が溜まってしまって顔を出せないらしいとのこと。なつは海軍大将のことを何一つ知らないので、大将という肩書きを持つと色々忙しいのだろうなとだけ考えた。

「雪野さん、でいいのかな」

「貴方は……いぶき、大佐」

 二人は互いに名札を確認し合う。それが終わると海兵こといぶきは、訓練用銃を持ち、なつへと手渡す。戸惑いながらも、彼女はそれを受け取った。その行動が意味するのは、ただ一つだけ。それを理解していたからこそ、なつは恐る恐るいぶきの顔色を窺い見た。

「……どうぞ。未来の部下の腕前を見ておきたいので」

 いぶきはにこりと笑ってそう言う。なつは小さく頷き、銃を構える。
 長い前髪の下、暗く淀んだふたつの目が捉えるのは人型の標的の頭部。呼吸は深く静かに。持ち慣れない銃を身体の一部として。張り詰めた空気を壊さぬように。あとは、軽く添えていただけの人差し指に力を込め、引き金を絞るだけ―――。








「すみません、こんな時間になってしまうなんて」
「いえ、私の方こそ夢中になってしまいました……申し訳ありません」

 いぶきとなつは艦艇の廊下を足早に歩く。ただし、いぶきの後ろを歩くなつ、その後ろに実習生の生徒たちの姿は、ない。
 二人が射撃訓練に夢中になっている間、ふと気がつけば訓練場には人の姿がなくなっていて、嫌な予感がして時計を見ればもうとっくに夕飯時。体験入隊の時間も、終わっていた。それなら声をかけてくれてもいいとは思うものの、あの射撃場は訓練場の奥にあるし、防音性も高い。いぶきは「大方、ミトさんかゼロイドさんあたりが実習生を撤収させたんでしょう」と苦笑する。

 甲板に出ると、もう月が出ていて、夜の海は黒く染まっていた。
 吸い込まれそうなほど真黒な海を見て、なつは思わず立ち止まる。いぶきは彼女が立ち止まることなどせず自分の後ろについてきていると思っているため、歩を止めずに艦艇から港への降り口へと歩んでいく。

 黒い海。黒い空。静かな波のさざめき。そこにぽつりと月が浮かんでいる。海面に月が映って、月はふたつ存在していた。幻想的な景色を前にして、なつは声を発することもせず、ただそれらを眺める。
 数秒間の不動が続くも、突如背後の扉が開く音がして、なつははっと我に帰る。艦の灯はあるが、薄暗いのでその扉から出てきた長身の人影が誰かは分からず、顔を見ることもなく彼女はぺこりと会釈して、駆け足にいぶきの後を追った。「あ、おい、お前――」恐らくその人影、男の声が何かを言ったのが聞こえたが、なつは焦っていたため立ち止まりもしなかった。
 きっとその声に聞き覚えがあると感じたのは気の所為だ、何故なら海軍に彼女の知り合いなどいはしないのだから。


「あ、いたいた雪野さん!」
「すみません、いぶきさん……っ」
「急に居なくなるから驚きましたよ」
「ええと……ご迷惑ばかりおかけして、すみませんでした。今日はとてもためになる演習でした、ありがとうございます」

 深々と頭を下げる彼女に対し、いぶきは柔らかく笑みを作る。



***



「ゆき、の?」

 部下であるいぶきの声が、確かにそう言うのを彼の耳が聞き取った。艦の上から持ち前の鋭い視覚が捉えるのは、軍学校の制服を纏う、小柄な背中。月光を照り返す真白い雪のような髪が揺れる。追おうと思えば簡単だった。確信も、少なからず。だがそうしないのは、どうしてだろう。あんなに傍にいたのに、気付かれなかったからだろうか。それとも、逆かもしれない。

「あ、大将。仕事は終わったんですか」
「おー……いぶきか。結局可愛い実習生たちに顔見せられなかったぜ…」
「普段から仕事溜めてるからそうなるんです」

 艦に上がったいぶきは苦笑交じりに言って、大将ことレフ・スディバーの視線の先を追った。
 手すりに頬杖をつくレフが見ているのは、先刻までいぶきと一緒にいたなつの後ろ姿。彼が何を考えているのか分からなかったいぶきは、彼女について簡単な説明をする。「今日来ていた実習生の雪野さんですよ」と。

「あいつ、海軍に入るのか……?」
「さぁ、分かりませんけど。どうしたんですか、大将」

「別に何でもねえよ」とだけ返すレフの口元は、どこか嬉しそうに弧を描いていた。鋭い双眸も、優しげに細められていて、それを見たいぶきは彼が笑っているのだと理解する。
 二人が他愛ない会話をしているうちに、いつの間にか風向きが変わっていた。陸側に潮風が吹きつけるようになった。



***



 なつはいぶきに見送られた後すぐに、物思いに耽っていた。海軍に知り合いなどいるはずはない。なのに先ほど擦れ違った誰かの声に、聞き覚えがあるような気がしてならないのだ。気の所為だと思いこもうとするが、頭の中の何かがそれを否定する。

 もやもやした思いを抱え歩いていると、風向きが変わった。陸から海へと吹いていた風が、海から陸へ吹く風に。するとその風に乗って、微かな声が優れた聴覚に触れた。


「   、         ?」
「  、        。        、大将」
「        」


 本当に微かな声だったので、ほぼ聞き取れなかった。しかし、大将、という単語が耳に入り、思わずなつは立ち止まる。声の主に、心当たりが出来たからだ。もしかすると、もしかして。そう思えば、急にその声が、耳に残った声が、記憶の中のそれと合致していく。掻き毟りたいほどに、胸の辺りが騒ぐ。そうだ、あの声は、きっと。
 なつは振り返る。自分自身では何も分からなかったが、彼女の顔は泣きそうに歪められて、だけど振り向いた先に彼は、いない。誰もいなかった。

 恐らくその日、彼女は海軍に入隊することを決めたのだろう。



***



 艦艇の手摺の影に身を隠したレフは、誰に言うでもなく呟いた。


「待ってるぜ」





fin.
10.1028.
たかまご様宅レフ・スディバー大将、輝星様宅いぶきくんお借りしました。まごしゃん貸してくださってありがとう、きららさんいぶきくん巻き込んでごめんなさああああああ!!!昔だったから勝手に佐官にしちゃった…ごめんね…ごめんなさい。これはフィクションであり実際のレフさんやいぶきさんとは一切関係ありませんよきっと。妄想の産物なんですよ妄想。たかまごさん企画参加してくださってありがとうございました!

title by ギリア