colorless | ナノ


もとより現





 ぴんと張り詰めた空気が、ぴりぴりと肌を刺す。繰り返される呼吸は音もなく、その痛いほどの静寂の中、互いの心臓の音だけが聞こえてきそうだった。永遠に思えた静を破ったのは、タンと軽い音を鳴らして床を蹴った少女。彼女が勢いに乗せて繰り出した鋭い蹴りを見極め、目前まで迫られた青年は素早く身を沈めることでそれを回避する。体勢を整えた青年が拳を繰り出し、予備動作を行わなかったためにまだ適切な対処をすることが出来ない少女は、両腕を交差させて彼の拳を受け止めた。とても重い拳。まともに受けた両腕が電撃を受けたように痺れる。

「……っ」
「正面から受け止めようなどと考えるなよ、なつ。受け流せ。大の男と戦うとなると圧倒的に不利だからな」
「ッは、い、甲弩先輩」

 言われた通りに次々と繰り出される正拳を、なつは腕を必死に動かしていなしていった。力をまともに受け止めなくて済む分体力は減らないが、その分神経がすり減っていく。しかし感覚がまだ戻らない腕では間に合わず、受け流し損ねた一発が彼女の頬を掠める。咄嗟に身を引いていなければ顎を打ち抜いていただろう。ほっとしたのも束の間、なつの気が抜けた一瞬を見逃さなかった忠誠は、一歩大股に踏み込み、掌底を彼女の顎の下から突き上げた。鈍い音が響く。
 今度こそ防御出来なかったなつは半円を描きながら宙に浮き、修練場の床に転がった。意識が薄れていく中痛みを認識し、これが現実なのだと強く頭に刻み込み目を閉じる。暫く意識は戻らないだろう。また静寂が生まれ、忠誠は横たわる彼女を見下ろしながら深く息を吸って、吐き出した。












「お前がぼーっとしているなんて珍しいな」
「……甲弩少佐…」

 ティーカップを手にしたまま微動だにしなかったなつを見かねた忠誠が声をかける。彼女はそれでも両手の中にあるカップで揺れている紅茶の水面を眺めたままだった。
 既にコーヒーを飲み干してしまっていた忠誠は傍にいた給仕にもう一杯を頼む。なつの紅茶もそろそろ飲まなければ冷めてしまうだろう、昇る湯気はほんの微かだ。忠誠には彼女の前髪の下の瞳が何を見ているのか、よく分かる。常人なら検討もつかないだろうけど、二人はある程度付き合いが長いのだ。先輩と、後輩。現在所属先が違うだけで、軍学校出身者として親交があった。

「…思い出して…いました…」
「…何を?」
「甲弩先輩に…完膚なきまでに負け続けていた頃のこと……」
「……」

 カップを口元に持っていった彼女の、喉元がこくりち小さく上下する。なつの言葉で忠誠も思い出していた。昔、まだ彼女がこどもで、自らも軍学校に属していた頃のこと。思えば最初に体術の教えを説いたのは自分だった。扱う武器は日本刀と狙撃銃、近距離と遠距離で全く対極の位置にあるものの、いざ体術を使うとなれば同じ事。ただ力の使い方が異なるだけで、そこは単純な男女の差である。

 恐らく二人とも忘れていたわけではないのだけど、思い出した。そんなに遠くない日のはずなのに遠く感じ、今はそれぞれ別の所属先でそれぞれの役割を果たしている。改めて考えるととても不思議な気分だった。

「次の航海はいつだ」
「明後日です……スディバー大将には会えましたか?」
「昨日たっぷり飲み明かした」

「お陰で二日酔いだ」と苦笑して、今し方運ばれてきた二杯目のコーヒーを一口飲み込んだ。
 お互いに、ほんの少しでも気持ちや感情を伝えることが出来る数少ない貴重な相手だ。一瞬の再会を大事にしようという思いは、少なからず存在している。

「なぁ、なつ。この後久し振りに組手でもしないか」
「………私はもちろん、構いませんよ」
「そうか。本気で来い……手加減はしないからな」
「はい……そうでなければ、私の為にもなりません」

 冷めた紅茶を飲み下したなつの、瞳が細められる気配を忠誠は感じた。後輩の成長が楽しみである半面、明後日の船出に響くような怪我を負わせてしまったらという杞憂が忠誠の中に生まれる。しかし彼女は後輩であると同時に、自身と同じ軍人だ。手加減することこそが相手に対し失礼に値することを思いなおし、忠誠は席を立った。そしてなつも後に続く。

 並んだ背中の大きさはまったく違っていたが、負った重みはどこか似通ったものがあった。


fin.
10.0924.
蒼真様宅甲弩忠誠君お借りしました。そしてたかまご様宅我らがスディバー大将のお名前お借りしました。中佐と忠誠くん先輩後輩だよっていう話。忠誠くんが卒業した後も個人的に稽古つけていてくれたらいいなっていう08の妄想と願望の産物。許可くださってありがとうございました!

title by 濁声