colorless | ナノ


浮き世離れ





 白は人をどうでもいいものとして見た事はいくらでもある。長い間生きたがそれはほぼ変わりない、興味の対象として自分とは別のものと、切り離して考えている。興味すら持てない人間は本当にどうでもよかった。今でも同じ考えだ。恐らくどんなに時がたっても変わることは無いのだろう。
 でもだからこそ、興味を持った彼女に対しては抱く意識が違っていた。もしかしたら、彼女の傍に何か人間ではないものの気配を感じたからなのかもしれない。まぁ、ただそれだけのことだ。



 二人は図書館にいた。休日だからなのかそれなりに人はいるのだが、図書館という場所の性質と暗黙のルールを乱す者がいないため、館内は静寂に包まれている。ルールを守っている者たちの中に含まれる二人は、長机を挟み向かい合って座り、読書に勤しんでいた。
 白とピピットは当然、自分が読みたい本を読む。既にピピットの前には数冊の分厚い本が積まれていて、片手に一冊ずつ持ち交互に目を通していたのだけど、白の前にはたったの一冊の本しかなかった。積まれている本もなく、机の上には一冊だけ。彼が速読を得意としている事をピピットは知っていたので、ふとした時にそれを見て思わず目を見開いた。当の白は食い入るように本を読み、視線には気付いていない。尤も、気付いているが気付かないふりをしているだけの可能性が高いのだが。文章の一字一句を違えることなく記憶しているはずなのに、彼は何度か頁を戻ったりして、とても真剣な顔で何かを呟いたりしていた。


 結局閉館時間まで本を読んでいた二人は、帰路を共にする。白は先刻まで読んでいた本を読み終えたらしいが、帰り道でも何か考え事をしているようだった。そこまで一つのことに集中している白を見たことが無いピピットは興味本位で聞いてみた。「そこまで君を夢中にさせる本とは何なのかね。私も興味を持ってしまいそうだよ」、と。
すると白は小さく笑い、答えた。

「ああ…不思議の国のアリス、ですよ。貴女も読んだことがあるのではないですか?」

 それを聞いて、ピピットは閉じていた目をまた開いた。単純に驚きが勝ったのだ。


「君も人並みに童話を読んだりすることもあるのか。少し驚いたな、君に対する認識を改める必要がありそうだ」

「おや、ピピット。あの本を童話という枠に収めてしまうのは浅はかというものですよ。確かに世間一般の扱いとしては“不思議の国のアリス”とその続編“鏡の国のアリス”を童話に含みますが、あれは立派な心理学書です。子供向けの児童書ではなく、ルイス・キャロルが執筆した原文はとても興味深い」


 珍しく饒舌に語りだす白の言葉を、ピピットも興味深そうに聞きいる。同じ心理学部に属するものとして、純粋な知識欲が働いた。確かに彼の言うとおりピピットはその本を読んだことがないというわけではない。だが、本の読解は人によって様々なのだ。それこそ、読む人の数だけ解釈が存在すると言ってもいい。


「特に、“鏡の国”で少女アリス・プレザンス・リデルとハンプティ・ダンプティが交わす意味論についてが面白い。アリス曰く、「一つのことばには、たくさんの意味を持たせることができる」。ハンプティ曰く、「おれは一つのことばにそんなにたくさんの仕事をさせるときは、いつだって特別手当をはらうことにしている」。さてピピット、貴女ならこの言葉の“意味”をどう考えますか?」


 謎かけのように疑問符を与えられた彼女は手にしていたステッキを顎に宛て「ふむ」と唸る。意味論はいくつかに分類される。言語学、数学、計算機科学、それぞれにおける意味論。

 そもそも意味とは何なのか。意味論の方法論とは。言語理論における意味論の位置づけ、表現に正しく意味を与えるための条件。意味の場や語彙素間の関係、認知と意味の関係に多義の構造 、そして字義通りの意味と比喩的な意味の関係。今問われているのは言語学的な、字義通りの意味と比ゆ的な意味の関係の解釈だ。
 白は敢えて、意味論に関する会話の“意味”を問いかけた。 それは恐らく言葉遊びの一環。そもそも“アリス”には、言葉遊びとしての会話が多く、彼女もそれに興味を持ちあの分厚い本を手にしたことがあった。

 ピピットは頭の中で組み立てた答えをゆっくりと言語化していく。


「アリスとハンプティが口にした言葉は、そのままの“意味”だ。ことばに含まれる意味が一つなどという固定概念は捨てるべきだと私も思うね。例えばひとつの言葉が一つだけの意味に限定して使用してしまえば、その世界は夢の国、不思議の国となる、そういうことだろう雪代君?」

「ええ。その夢の国でアリスは「この世界では花は眠っているもの」と教えられる。花が存在しているのは花壇――『flower bed』ですが、直訳してしまえば花の寝台ということになります。実に面白い言葉遊びの世界だと思いませんか」

「なるほどな、そう言われると私も是非もう一度読み返したいと思える。今度書店に行った時にでも探してみようか。よければ君も付き合ってはくれないかね?」

「もちろん構いません。私としては、日本語訳されたものよりも英語の原文ハードカバーが望ましいです」


 二人はその後道を別つまでそれぞれの意味論を交わし論議した。この後数週間、大学でも互いの考察や意見をぶつけあい、そのやり取りを二人とも同じように愉しんだ。
 そして後日ふと白がその時の感想を口にして、それを聞いた黒は苦笑いして素直な感想を漏らす。

「それ、少なくとも付き合ってる奴らの会話じゃねえよ」

 黒も何となくは知っていた。双子の弟と、ピピット・J・フーガ。この二人は恋人同士と言うには、どこか両者共に浮き世離れしている所があると。しかし白が深く関わることを拒まないと言う事は、彼女の存在はそれなりに意味のあるものなのだと言うことも分かる。長い間関わることがなかったが、それ以上に長く深い血の繋がりだ、黒は誰より白を理解していた。

 兄の言い分に薄く笑みを零した白は頷いて答える、「私もそう思います」と。だが続けてこういうのだ。


「―――が、このように無意味なことに“意味”を見出すことこそ、楽しいと思いませんか?」



fin.
10.0918.
かや様宅ピピット・J・フーガさんお借りしました。途中で自分でも何書いてるか分からなくなったのは墓まで持っていきたい内緒。実はCP成立してた二人ですが、恐らくこの先もこんな感じでまったりやっていくのではないかと思います似た者同士だし。正に浮世離れ。あとアリスシリーズの言葉遊びは本当に面白いです、08的にはジャバウォックの件がすごく好き。造語楽しいよ造語。拝借許可ありがとうございました!

title by にやり