colorless | ナノ


こころ革命





 赤羽マナは、雪野なつにとってそこまで大きな存在ではなかった。偶にふらっと自分の前に現れて、返ってくる反応を予想出来ているくせに何かと絡んでくる不思議な青年。過去は暴走族だったという噂もあるのだが、こうしてにこにこ笑いながら朗らかに接されると、なつにはそれをにわかには信じられなかった。
 そんな彼、マナは、時折なつに対して言葉の爆弾を落とすことがある。わざとなのか、天然なのか、測りかねるところだが。


「なつさんって、最近スディバー大将のことばかり見てるんじゃない?」


 ばさばさばさ。
 なつは手に持っていた書類の束を全て床に落とした。ちなみにここは海軍の本部なのだが、何故警察に属しているマナがここにいるのかは触れないことにする。彼は「あーあ」と軽く呆れたような声を上げ落とした書類を拾い始める。対して、なつは暫く呆けていたが、やがてはっと我に帰り慌てて書類を拾う。もっとも、既にマナが半分以上の書類を拾っていてにこやかな笑顔で手渡されてしまったのだけど。

 にこにこ。にこにこ。マナはただ、笑っている。なつは平常心を装い、震えそうになる手で書類を受け取り、小さく礼を言う。そのまま背を向けて、とにかく彼の前から立ち去ろうとした。
 追いかけてくるのは、マナの声。

「質問の答えを貰ってないよ、なつさん」

 数秒の間をおいて、返ってきたのは、いつも以上に小さな声。

「そんなわけ…ありませんから……」

 毅然として去っていく背を、マナは真意の知れない笑みを浮かべながら見送った。





***




「スディバー大将…書類、お持ち致しました…」
「げ……それオレがやるのか…?」
「…私が出来れば、よかったのですけど…」

 言い辛そうに「大将直筆のサインが必要でしたので……」と、いつでも小声で話すなつの語尾は段々小さくなっていく。大将ことレフ・スディバーは、それを見て罰が悪そうにがしがしと頭を掻くと、深い溜息を吐いた。机の上に置かれた書類の山を一瞥し顔を顰め、立ててあった羽ペンを乱雑にインクに浸ける。どうやら観念したようだった。

「そんな顔すんなよ中佐、オレだってやれば出来るんだぜ」
「……すみません」
「謝るな、オレが悪いみたいに思えてくっから」
「……………」
「ん……中佐、オレの顔に何かついてる?」
「…いいえ…なにもついてませんよ」
「そうか、オレのことじっと見てるからてっきり涎の後でもついてるかと…」

 遠まわしに、自身が少し前まで居眠りしていたことを告げる上司に対し、しかしなつは別の言葉を脳内で反復していた。
 見ていた。じっと、見ていた。誰が何を、誰を。雪野なつが、レフ・スディバーを。見て、いた。
(私が、大将を?)


  ―― なつさんって、最近スディバー大将のことばかり見てるんじゃない?


(……、っ)


 不意に、つい先刻聞いたマナの台詞が蘇り、息が詰まる。小さな空気の変化を、まだ書類に集中していなかったレフが感じ取った。彼は怪訝そうに目を細め、下から覗きこむようにしてなつを見る。角度的な問題で、長い前髪は意味がなくなってしまう。
 元から切れ長な瞳の、鋭い視線を正面から受けると、彼女は動揺を隠しきれず目を逸らし背を向けようとする。その瞬間追いかけてきたのはレフの声で、確か数分くらい前にもこんなことがあったなと、ほんの少し前の出来事なのになつは懐かしく、そして少しだけ忌わしく思った。

「なつ、」

「―――、はい」
「偶には休めよ、大将命令だ」
「っは、い…了解です」

 躊躇いがちに振り向いてみれば、案の定と言うべきか、彼はにっと笑っていた。大将の素直な心遣いが胸に刺さる。もっとその笑顔を見ていたいと思ってしまう思考に蓋をして、なつは軽く会釈をして大将の執務室を後にした。これ以上この場所にいれば、何かがおかしくなってしまう。そんな気がした。

 気を紛らわせるため、今日はいつもより倍以上に仕事をこなそう。なつは心にそう決め、背筋をぴんと伸ばして廊下を歩く。まだ年若い彼女が、周囲に甘く見られないよう、入隊当初から心がけていたことだった。
 新米だからと侮られないよう常に背筋を伸ばしていること。誰よりも多く長く働くこと。対人が苦手でも職務に必要な返事や口頭だけはしっかりできるように。




 別の仕事を貰ってなつは一旦海軍本部を後にした。陸軍、空軍の大将に会い重要書類を届け、同時に預かってくること。重要である割に簡単な仕事ではあったが、何しろ外はこの暑さだ。外には空調機などあるはずもない。口には出さずとも、皆この仕事を遠まわしに避けていた。そんな、言ってしまえば面倒な任務をなつは受け取る。働いてさえいれば邪念は振り払えるはずだと信じて。

 建物から一歩、外に出る。むわっと体に纏わりつく湿気と熱気。室内と外との温度差に眩暈がした。顔を顰めて、彼女はもう一歩踏み出す。歩く度、足元がぐらついているような気がした。日陰から出て、直接日光に当たる位置に立つ。酷い耳鳴りがして、眩しすぎる光が前髪の間から差し込んで、頭が締め付けられたように痛んで、それから。

(あ……?)

 景色が目まぐるしく流れていく。

 暗転。






***






 そこにあったのは、真白い天井。なつは体の下にあるのが白いシーツだと知って、自分が久し振りにベッドで寝たのだという事実に気付く。次の瞬間、ばっと飛び起きた。更にその次の瞬間には、ぴたりと動きが止まった。起き上ったのは、ここが海軍本部の医務室であることに気付いたため。今にも寝台から飛び降りようとしていたにも関わらず静止したのは、ベッドの横の椅子に座り、シーツに突っ伏して静かな寝息を立てている人物がいたからだ。
 しかもよく見れば、その人物は、レフ、だった。息が止まりそうになる。

「大将、起きて…ください、スディバー大将」

 どうしてこんなところにいるのか。自分がどれだけ眠っていたのか。何故彼がここにいるのか。ぐっすり眠っているところを起こすのは気が引けたが、そうせざるを得ない。寝起きではあるが、なつの理性はそれなりに働いていた。だが少しだけ、弱まっていたのかもしれない。

「スディバー大将…… レフ、大将…」

 その名を、呼んでみたのは。なつにとって初めてだった。
 自然に動いた手が、その黒い髪に触れた。真っ直ぐで、少し硬めの髪質。レフが唸りながら身動ぎすると、弾かれたように彼女は手を引く。

「う……あー…、目覚めたか、なつ。よかった」

 若干寝惚けた様子で顔を上げたレフは、なつが起きていることを認識すると口元を緩めた。きっと心配してくれていたのだろう。名を呼ばれ心臓が跳ねると同時に、彼女は罪悪感に駆られて顔を俯かせる。

「…ご迷惑おかけして、申し訳ありませんでした」
「いきなり倒れたって聞いて、心配したんだぞー」
「すみません…それで、あの、私一体どれくらい眠って…」
「ああ、オレも寝てる間に日付変わったな。夜中の二時だ」

  ごっ

 寝台から降りて靴を履こうとしていたなつは思い切りバランスを崩し、傍の壁に頭をぶつける。鈍い音がした。
 彼女の顔にはいつも何の表情も浮かばないが、この時は絶望に塗り込められていた。小刻みに震えてすらいる彼女を見て、レフは座ったまま寝台をぽんぽんと叩き、「まだ寝とけよ」と声をかけるのだが、彼女は首を横に振り急いでかけてあった上着を羽織った。

「大将、本当に申し訳ありません。重要書類を…取りに行けず、」
「心配ない、比嘉上等兵を代打に寄越したからな」
「それでも…私………すみません…」

 最低だ。最悪だ。なつは酷い自己嫌悪に苛まれる。自ら請け負った仕事すらできないなんて。他の人にそれを任せてしまったなんて。途端に、自身がどこまでも不必要な存在であるように感じ始める。中佐という肩書などがついたところで、雪野なつという人物の代わりなど、いくらでもいるのだ。
 先刻打撲したのが原因というよりも、他の要因の所為で頭が酷く痛んだ。目頭が熱い。耳鳴りが煩い。手足が冷たい。指先が痺れる。気持ち悪い。


「なつ」


 レフに名を呼ばれ、今にも医務室を飛び出そうとしていた彼女は肩と耳をぴくりと揺らして反応した。上司に対して無言を貫くわけにもいかず、ほんの小さな声で「はい」と返す。今回ばかりは、振り向くのが怖かった。
 もしも出来るなら、今すぐこの場から消えてしまいたいと思うなつ。だが現実にそんなことが実行できるはずもなく、寝台に頬杖をついていたレフが、大きな欠伸を一つ零してから言う台詞を、何を隔てることもなくその耳に入れた。

「お前、休め」
「……それはもう、聞きました」
「大将命令。明日から三日くらい休暇だ。出勤したら減給な」
「え、ええ……っ?」
「ははは、中佐が三日間も不在だと皆参りそうだな」

 まるで遊びに行く日の相談事をしているかのごとく、レフは楽しそうに笑う。なつは突然の上司命令に疑問符を大量に浮かべながらも、『三連休の休日』という事態に見舞われた自身を想像してみる。――― 有り得ない。まず想像すらもつかず、実際にそのような展開になったとしても、三日間仕事もせず何をしろというのか。

 完全に混乱している彼女の頭の上に、レフの手が乗せられた。一瞬なつの体は強張るが、すぐに力が抜けていく。彼はよく、年下の部下の頭を撫でることがあった。こども扱いされたくないからと突っ撥ねる者も少なくないが、彼女は、どうしてもそれを拒むことができない。きっと、ずっと昔の、あの出来事を思い出すからなのだろう。

「次に出勤する時は元気な顔見せてくれな」
「…………はい…」
「時間空いたら電話してやるから。寂しがるなよ?」
「 、寂しくなんかありません」

 むっとした様子で言うなつを見て、面白おかしく笑い声を上げるレフ。なつは彼の笑顔から目を離すことができなかった。特に思い当たる理由はないけれど、笑ったその顔を見ていたいと思った。
 ふと、マナが言い放ったあの言葉が脳裏に過る。頭のどこかではすでに認めてしまっていたから、否定のしようがなかったから、あの時咄嗟に応えることができなかった。それは、自分でもわかっている。


―― なつさんって、最近スディバー大将のことばかり見てるんじゃない?

(否定、できません、よ)


 今までに一度たりとも抱くことが無かったその気持ちを、何と名付けよう(何とか革命、とか?)
 ただ彼女は、なつは、こうして海軍という場所にいてレフの下で働くことができて、幸せだとそう思っているのだ。それ以上を望めば何かが壊れる気がして、望んでは行けない気が、して。
 なつは浅く唇を噛んで、レフにその顔を見られることが無いように、手櫛で前髪を整え、言った。

「大将…あの書類は、終わりましたよね?」

 それは、彼女なりに精一杯の強がり。今度は、屈託なく笑っていたレフの表情が強張る番だった。




fin.
10.0903.
たかまごさん宅レフ・スディバー大将お借りしました。長ェ……妄想展開すみませ…つか一週間の休暇とか08が欲しry何でも無い…。そしてマナが最初無駄に出張った件。奴は勝手に他所に出入りするから見つけたらつまみだしてあげてくださいね!ちなみに陸地設定、航海前の準備期間とか。こんな俺得文章ですみません、それでも拝借許可をくださったたかまごさんが好きです、ありがとうございました!

title by にやり