colorless | ナノ


博愛の憂鬱






 新月の晩の事。その日、彼女には珍しく酒を酌み交わす相手がいた。
 酒の肴になる会話は、他愛のないことばかりで、意味など求めてはいけないのかもしれない。


「博愛、という単語の意味を知っているか?」


 まだ年若い女吸血鬼は、大きな樹の太い枝に腰掛けてちびちびと杯を傾けながら不意にそんなことを言う。その隣に座る、黒狼の姿から人間に戻っていた獣人――ウェイルは、黄金色の瞳を細めて首を傾げた。言葉とその意味合いとして知っていても、“博愛”という感情を、彼は一個人として抱くことが無い。それは彼女、ライラとて同じだろう。何故なら二人は魔物で、多種族を傷つけることこそが本能。その時点で、博愛主義という枠からは外れることとなる。
 何故突然酒を飲みながらそんなことを言いだしたのかと、ウェイルは視線だけで問いかけた。それを受け取ったのか受け取っていないのか、ライラはとくとくと真赤なワインを杯に注ぎ足しながら唇を開いた。

「本に、“博愛主義”という言葉が出てきてな。辞書を引いて、その意味合いを調べて、私なりに考えてみた」
「ああ、君は読書が好きだったな。それで、どう考えたのだ?」
「ん。あまりいいものではないな、と」
「そうだろうな。博愛など、偽善も甚だしい」
「それもあるが……」

 そこで一口、ライラはワインを一気に飲み干して一息置く。喉がごくりと上下した。それを横目に見ていたウェイルには、酒を飲んで台詞の滑りをよくしているように思えた。
 ウェイルは、ライラとつるむようになってから少しは彼女を知ったつもりでいる。自分と違って、彼女は意味のない会話をそれなりに好むこと。読書家だからなのか、会話術に富んでいること。読書よりも酒盛りが好きなこと。それから、色々(私をもふもふするのは止めてくれないだろうか…)

 話しにくい事は、酒を飲んで吐き出すタイプであることも分かった。いや、彼女の場合は、酔いというよりもそれを酒の所為にして口に出す、と言う方が近い。従って、愚痴や彼女自身の深い部分に関することなど、ウェイルは聞いたことがなかった。
 掴みにくい相手だ、と感じることは多々あったが、ライラと酒を飲み交わす時間が彼は嫌いではない。なので、こうして静かに話を聞いているわけだ。
 彼の目線の先で、ライラはゆっくりと息を吸い込む。

「私にはそれが、とても空虚なものに思えた」
「それは、何故?」

 空虚。つまり、空っぽ。博愛など、ただの偽善者の思想だとウェイルは考えていた。それを空虚だと思ったことは、その言葉と意味を知ってから一度もない。疑問符は彼の口から自然と零れたものだ。
 ライラはもう一杯、酒を注ごうとワインのボトルを手にした。が、中身が空であることに気付き、残念そうに肩を竦める。今回の酒盛りで空けたボトルは、これで三杯目。ウェイルも飲んでいるといえば飲んでいるが、彼女ほどではなかった。

「全てを平等に愛している、ということは、本当に愛している誰かがいないということだ」
「………」
「特別が、いないんだ。全て同じものにしか見えないと、その程度の認識だと」
「そんなこと、考えもしなかった」
「偽善よりも悲しいものに、私は思うよ」

 ワインののストックは、もうない。ライラが不満げに鼻を鳴らす。そういえばこんなに上等なワイン、いつも一体どこから持ってきているのだろうかとウェイルは疑問に思う。今はそれを気にしないことにしても、もうすぐ朝日が顔を出す時間だ。吸血鬼であるライラは太陽の昇る時間に外で活動することができない。

 誰かに言われなければライラはこのままここにいて、陽の光を浴びて伝承通り消えてしまうかもしれない。一応年長者としてそれを止めなければいけないウェイルは、「そろそろ城に帰れ」と声をかける。
 普段よりもゆったりとした動作で、ライラは頷く。二人は分担して酒瓶とグラスを持ち、ほぼ同時に木の枝から飛び降りた。それなりの高さがある場所にいたので、必然的に落下を始めてから着地までの時間が数秒間ある。風を切る音に紛れて、「私も博愛主義なのかもしれないな」と小さく呟かれた言葉は、果たして幻聴だったのか。ウェイルは何も聞こえなかったふりをして、速足に城や館のある方向へと歩いて行った。


 ライラは段々小さくなる背を眺めて、小さく笑む。やがて紫色に染まり始めた空を一瞥すると、ゆったりと足を進めた。暫く歩くとそこにはウェイルが待っていて、不機嫌そうな顔で迎えられる。

「何をしているライラ、遅い。早く行くぞ」

「…すまないな、ウェイル」

 また誘ってもいいか、という問いがライラの喉の辺りまで湧き上がる。だが、止めた。別に聞かなくても、そんな気分になったら無理矢理に誘ってしまえばいいのだ。先刻遅さを咎められたために零れた苦笑の奥に、そんな悪戯染みた意味合いを含めながら、彼女は外套を翻し、その笑みを隠すためまた歩き出した。

 ひとりもいいが、ふたりも悪くない。何となく、ライラはそう思っている。


fin.
10.0902.
蒼真様宅ウェイル・ウルフラムさんお借りしました。妄想展開すみませんでした。何かライラのお兄さん的な立場になってないか…いや、うん、妄想乙です自分。でも博愛ってそんな感じじゃないかと思ってる08は中二ですかそうですか。拝借許可ありがとうございました!

【博愛】すべての人を平等に愛すること。
【博愛主義】人種・国家・階級・宗教などの違いを越えて、人類は広く愛し合うべきであるとする主義。