colorless | ナノ


夏の去り際





 偶然だった。それは全くの、偶然。

 連日の高気温によりいつもより元気が無く見えていた紅。それでも飽くことなく雹の後ろをついて歩いて、彼もこの温度と紅の存在によって苛立ちを抑えきれなくなり、振り向いて何か追い払うような言葉の一つや二つ吐き捨ててやろうと考えた。
 振り向いたその時、彼は自身の瞳に映った紅は暑さゆえに汗ばんだ髪が鬱陶しいのか、長い前髪を掻き上げていた。その姿を見て何か違和感を覚えたのだ。そう、違和感。どこが、と言われれば咄嗟に口に出せない、何故なら雹はそこまで彼女を意識して視界に入れることが少なかったから。どうしてか紅は、この暑い温度の中彼の目の前で青褪めていく。まっすぐに、目が合った。
 彼女の二つの目と、雹の目が、真っ直ぐに。

(――あ、そっか。こいついつも右目隠してんだっけ)

 答えは存外早く見つかる。我に返ったらしい紅は、、慌てて髪を下ろし右目を隠した。しかしもう遅い、数秒間凝視し合った雹は、もうそれを目に焼き付けていた。彼女の右目の傍、眉のあたりに刻まれたケロイド状の傷痕。少しの間目に入れただけだが、ああこれはもう一生消えないだろうな、と雹は心の底でそう思った。

 だがだからどうしたと彼が内心首を傾げたところで、紅はふっとそっぽを向いて罰が悪そうな雰囲気を漂わせる。女の顔に傷があるのは当人にとってよろしくないことに変わりはないが、しかし紅がそのようなことを気にする性格だとは思えなかった。
 いつもへらへらけらけら一人で騒がしい紅が黙ると、不自然な静寂が生まれる。かといって雹はこのような時に上手い言葉を見つけられるほど話術に長けていないので、無言になってしまう。どうして自分も相手も黙ってしまったのか、雹が理由を見つけられずにいると、紅が突然背を向けて歩き出した。力無い声で「あついから帰る」とだけ呟いて。
 どんな時でも鬱陶しく纏わりついてきて、そのくせ去り際はあまりにもあっさりしている紅。彼女が去る時、こんなにもやもやと苛立ったことが雹にはなかった。

 それは全くの、偶然。
 強風に背を押された所為なのか、自発的になのか、とにかく雹の足は動いていた。


「待て馬鹿」

 彼が掴んだのは襟首。紅の口から「ぐぇ」と少なくとも女性らしくはない声が漏れた。

「何いきなり帰ろうとしてんだ」
「……、何となく」
「いつもうぜぇくらい付きまとってくるくせに」
「もうすぐ、終わるね」
「あ?」
「夏、終わるね」

 気付けばいつの間にか八月末。暫く残暑の厳しい日が続くだろうけど、もう間もなく夏は終わりを告げ、やがて秋がやってくるのだ。
 だからと言って何故このタイミングで彼女がそんな事を言うのか、理解できずに雹は眉を潜めた。丁度紅の真後ろにいるため、彼女がどこを見ているのか雹にはわからない。何となく、空でも見ているのではないかと考えた所で、紅は誰が求めているでもないような答えを口に出した。

「夏の終わりは曖昧だから誰にも悟られないんだよ」
「誰も気にしねぇだろ、そんなもん」
「だから私も夏みたいにいなくなってみようかなー…ってね」

 言葉の終わり、小さな空気の振動。その時確かに、紅は笑ったのだと雹には分かった。普段のように掴み処のない笑顔だろうか。それとも時折浮かべる自嘲気味な笑みなのだろうか。いずれにしろ、暑さと彼女の行動によって苛立っていた雹が無駄な思考を放棄してしまうには、十分すぎる要素だった。


「お前馬鹿じゃねーの」


 何を言っても傷ついた顔ひとつ見せないところ。


「テメーに限って有り得ねー、つか似合わねぇ」


 毎日飽くことなく後ろをついて歩くところ。


「感傷的になってんじゃねーよ、馬鹿」


 嫌いな赤色を同じように嫌ってそれでいて自棄にならないところ。


「どーせ夏なんざ来年になったらまた来るだろうが」


 あからさまな好意を一方的に向けて特に見返りを求められないところ。
 最初は全部大嫌いだったけど、今はそこまで鬱陶しく感じなくなっている。
 きっと夏が終わる頃にもその先も次の夏にも傍にいるであろう彼女の姿を、今はもう簡単に想像できてしまう自分に少し苛立つものの、そこまで不快感は感じなかった。
 紅は先刻よりも分かりやすい笑い方をして、「そうだね」と頷いた。やっぱり彼女には、その笑い方の方がしっくりくるような気がして、雹は憮然として鼻を鳴らした。

 湿気の強い夕方に、秋の香りがする涼しい風が一筋吹き抜ける。


 もうすぐ夏は終わりだ。


fin.
10.0831.
ダイチ様宅雹ちゃんお借りしました。夏の終わりって曖昧だよね(笑)っていう話。紅にセンチメンタルは似合わないよばーかって話でもある。彼にはいつもお世話になっていますダイチありがとう!